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一切の無明を破し、一切の志願を満てたまふ [『教行信証』精読(その73)]

(15)一切の無明を破し、一切の志願を満てたまふ

 南無阿弥陀仏は、いわゆるマントラのように、それを称えることにより、もともとそれに備わっている不思議な力(われらの「無明を破し」「志願を満てたまふ」力)を自分のものとするものではありません。
 南無阿弥陀仏は真実のことば(真言)に間違いありませんが、それはどこかにあって、われらがそれを手に入れてくる(ゲットする)のではありません。それはあるときふとむこうから聞こえてきて、そのときすでにそれにゲットされているのです。むこうから聞こえてくることばをわれらが受けとり、それをわれらが真言と判断するのではありません。そうではなく、それが聞こえたこと、それにゲットされたこと自体が、それが真言であることの何よりの証拠です。なぜなら、そのときすでにわれらの無明が破られ、われらの志願が満たされているのですから。
 さて、名号はわれらの「無明を破し」「志願を満てたまふ」ということについて、これには二つの意味があると昔から言われてきました。ひとつは「われらの一切の無明煩悩を破り」、「われらの一切の志願を満たす」という意味で、もうひとつは「本願を疑うという無明を破り」、「浄土往生という志願を満たす」という意味であるとして、前者は当益(来生において得られる利益)で、後者が現益(今生の利益)だと言うのです。なるほど分かりやすい解釈だとは思いますが(生きている限り、一切の無明煩悩が破られることはないでしょうから)、でもこれが親鸞の意にかなうとは思えません。
 そもそも現益と当益とに分けるという発想はいかがなものでしょう。それが浄土真宗の伝統なのかもしれませんが(現当二益とは誰が言い出したのか、覚如か存覚か、あるいは蓮如でしょうか)、親鸞その人にそのような発想があるでしょうか。今生においてどんな利益があるかはもちろん肝心要ですが、来生の利益について何かを積極的に語ることができるでしょうか。来生を見てきた人は一人もいないのに、一体どのようにしてそれを語ればいいのでしょう。
 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」と語るのが親鸞という人です。

タグ:親鸞を読む
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