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一切の無明を破すとは [『教行信証』精読(その74)]

(16)一切の無明を破すとは

 親鸞の書くものを読んでいますと、彼は来生のことを語るのをできるだけ避けようとしているような気配を感じます。まったく語らないわけではありません。なにしろ浄土の経典には「寿終ののち」のことが説かれているのですから、それにふれないわけにはいかないでしょう。しかしそういうときも自分から進んで来生のことを語ることはないように思えるのです。また浄土経典につきものの浄土の荘厳やそこにいる聖衆たちのありさま(読んでいていちばん退屈するところです)についてもできるだけふれないようにしていると感じられます。
 親鸞は「信巻」に現生十益を上げますが(「一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益,云々」と)、来生十益を上げることはありません。親鸞としては、この現生において「われらの無明が破られ」「われらの志願が満たされ」たら、もうそれ以上なにを望むことがあろうかという感覚ではないでしょうか。たしかに現生において「一切の」無明煩悩が破られることはありません。正信偈に「すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり(已能雖破無明闇、貪愛真瞋憎之雲霧、常覆真実信心天)」とありますように、本願・名号に遇うことができても無明煩悩の雲霧から解放されることはありません。
 無明の闇を破ることができても、無明煩悩の雲霧が覆っているという、一見矛盾した事態についてはこう言うべきでしょう。われらにとって無明の闇が破られるということは、無明の闇のただなかにいると気づくことに他ならないと。無明の闇にありながら、無明の闇のなかにあると気づかないことが正真正銘の無明の闇であり、それに気づいたときはすでに無明の闇が破られているのです。ソクラテスにとって最高の知は、自分が無知であることを自覚することであるように、われらにとっての最高の知は、自分が無明の闇のなかにいると気づくことです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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