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『教行信証』精読(その75) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その75)]

             第7回 行巻(その3)

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 真実の行は弥陀の名号を称することであると諸経典から明らかにしたあと、祖師たちの論釈からの引用がつづきます。その最初にくるのが龍樹の『十住毘婆沙論』です。

 『十住毘婆沙論』にいはく、「ある人のいはく、般舟三昧1(はんじゅざんまい)および大悲を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に般舟三昧はこれ父なり、無生法忍2はこれ母なり。『助菩提3』のなかに説くがごとし。般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ずと。家に過咎(かぐ)なければ家清浄なり。かるがゆへに清浄は、六波羅蜜4、四功徳処5なり。方便・般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過(とが)あることなし。ゆゑに家清浄と名づく。この菩薩、この諸法をもつて家とするがゆゑに、過咎あることなし。世間道を転じて、出世上道に入るものなり。世間道をすなはちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息となづく6。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界7を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに、名づけて入とす。この心をもつて初地8に入るを歓喜地と名づくと。
 注1 現前三昧、仏立三昧とも言い、仏が眼の前に現れる三昧(禅定)。
 注2 真如の法(無生)をさとる(忍)こと。真如の法は不生不滅であることから無生という。
 注3 『菩提資糧論』の偈文。龍樹作と伝えられる。
 注4 彼岸に渡るための六つの行。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。
 注5 菩薩が法を説く際に必要な功徳。諦(真実を説く)・捨(すべてを施す)・滅(名聞利養の心を滅する)・慧(智慧)。
 注6 「転は休息となづく」と読むべきか。
 注7 欲界・色界・無色界。迷いの世界。
 注8 十地のはじめ。菩薩道52階位の第41位。

 (現代語訳) 『十住毘婆沙論』に次のようにあります。ある人はこう言われます。般舟三昧と大いなる慈悲を諸仏が生まれる家と名づける。この二法から諸仏が生まれるからであり、そのなかで般舟三昧を父、大いなる慈悲を母とすると。また般舟三昧が父であり、無生法忍が母であるとする考えもあります。『菩提資糧論』に、般舟三昧という父と大いなる慈悲・無生法忍という母からすべての諸仏は生まれると説かれている通りです。
 この家にはどんな傷もなく清浄です。清浄といいますのは、この家に入るには、六波羅蜜と四功徳処が必要であるとされたり、方便と般若波羅蜜、すなわち智慧の二つが善慧として必要であるとされたり、あるいはまた先に上げたように、般舟三昧と大いなる慈悲・無生法忍が必要であるとされたりしますが、いずれにしてもこれらはすべて清浄であり傷はありませんから、この家は清浄であると言われるのです。初地の菩薩はこれらによって如来の家に生まれたのですから、どんな傷もありません。
 この菩薩は世間道を転じて出世間道に至った人です。世間道とは凡夫の歩む道であり、転じてといいますのは、その道を歩むのをやめるということです。凡夫の道はどこまでも涅槃に至ることができず、いつまでも生死の迷いの中にありますから、これを凡夫の道と言うのです。出世間といいますのは、この道により三界の迷いの世界から出ることができますから、これを出世間道と名づけるのです。出世「上」道とありますのは、この道が優れているからであり、「入る」とは、まさしくこの道を歩むから入るというのです。この心をもって初地に入るのを歓喜地と言います。

タグ:親鸞を読む
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