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如来の家に生まれる [『教行信証』精読(その76)]

(2)如来の家に生まれる

 経典から論釈に入って最初の引文ですが、ここまで読まれてどう感じられたでしょうか。弥陀の名号を称することが行巻の主題であるはずなのに、この龍樹の文はそれとどう関係するのだろうと戸惑われたのではないでしょうか。「般舟三昧」とか「無生法忍」といったことばは浄土の教えに親しんでいるものにはどうにも馴染みにくく、どうして親鸞はこれを論釈からの引用の最初においたのだろうという疑問がわきあがります。
 『十住毘婆沙論』(以下『十住論』と略称)という書物は、『華厳経』の「十地品」(独立した経としては『十地経』と言います)を注釈するもので、菩薩が修行を積み重ねる五十二階位のうち第四十一位の初地から第五十位までの十地について説いています。その『十住論』の「入初地品」、「地相品」、「浄地品」、「易行品」からかなりのボリュームの文が引用されるのですが、この文は「入初地品」からです。
 『華厳経』のもとの文は「則生如来家、無有諸過咎、即転世間道、入出世上道、是以得初地、此地名歓喜」で、これに龍樹が注釈を施しているのです。
 最初の一句「則生如来家」について、「如来の家に生まれる」とは、菩薩が十地のなかの初地に入るということであると解説してくれます。この家に生まれたら、王家に生まれた長子はかならず王になれるように、かならず仏になれるのですから、初地とは正定聚不退の位に他ならないことが分かります。親鸞はここに眼を付けたに違いありません。初地というのは如来の家に生まれることだとすると、それは浄土の教えにおいては弥陀の本願・名号に遇うことができ、正定聚不退となることに当たるではないか、と。
 『華厳経』の十地についての教えと、それについての龍樹の注釈が、浄土の教えと何の関係があるのかと思いますが、親鸞にとっては聖道門の初地の教えと浄土門の正定聚不退の教えがひとつに結びついているのです。そこからしますと「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」ということばもまったく新しい相貌を帯びてきます。それにしても「如来の家に生まれる」という言い回しには何とも言えないいい味わいがあるではありませんか。

タグ:親鸞を読む
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