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ほとけのいのちを生きる [『教行信証』精読(その77)]

(3)ほとけのいのちを生きる

 ぼくはしばしば本願信楽の境地をあらわすのに「ほとけのいのち」を生きるという言い方をしてきました。これまではひたすら「わたしのいのち」を生きてきたが、本願・名号に遇うことができたとき、「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づく、というように。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」でなくなるわけではありません。その点ではこれまでと何の違いもないのですが、これまではただひたすら「わたしのいのち」であったものが、本願信楽の暁には「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」でもあることに気づくのです。
 これまたよくつかう譬えで恐縮ですが、おたまじゃくしはひたすら「おたまじゃくしのいのち」を生きているのですが、あるときふとこのいのちは「蛙のいのち」でもあることに気づくようなものです。「おたまじゃくしのいのち」を生きているのはいままでと何も変わりませんが、こののちかならず蛙になることに気づき、「おたまじゃくしのいのち」がそのままで「蛙のいのち」でもあると思える。そのように、これまではただの「わたしのいのち」としか思っていなかったのが、あるときふとこれは「ほとけのいのち」でもあるではないかと気づくのです。これが本願・名号に遇うということです。
 さて「如来の家に生まれる」とは「ほとけのいのちを生きる」ことに他なりません。如来の家に生まれるということは、こののちかならずほとけになるということですから、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているということです。おたまじゃくしはかならず蛙になるのですから、すでに蛙のいのちを生きているように。このように見てきますと、「般舟三昧および大悲を諸仏の家となづく」ということばも、これまでにはなかった相貌を帯びてきます。「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」ということばから、「行巻」の後半に出てくる一節、「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」が頭に浮かんできます。親鸞はこの文で名号という父と光明という母から往生という子が生まれてくると言っているのですが、これが「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」とダブって映ってくるのです。

タグ:親鸞を読む
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