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傍受 [『教行信証』精読(その78)]

(4)傍受

 親鸞は『十住論』のこの部分、「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」を読むとき、般舟三昧を名号に、大悲を光明に置き換えて読んでいたのではないでしょうか。龍樹にとってそんなことは思いもよらず、般舟三昧も大悲も菩薩が初地に至るための自利利他の修行に他ならないでしょうが、それを読む親鸞には、弥陀の名号と光明に遇うことができたとき、如来の家に生まれ、ほとけのいのちを生きることができるようになると聞こえてきたと思うのです。
 ふと「傍受」ということばが浮びました。このことばが印象に残ったのは、『まどさん』という本の「あとがき」の中でした。詩人・安西均氏が、まどみちおの「戦中日誌」から「ひぐれのうす暗がりに、誰やらが三階から下へ手旗を送っている。『マリベレス ノ ユウヤケ』」という一節を引用して「夕陽を眺望する以上に深い、傍受者の心躍りがある」と言い、さらに「詩とは傍受であろう。幽かな〈存在者〉が、この世に絶えず送りつづけてゐる鈍い通信を、目を凝らし耳を澄まして傍受することであろう」と述べられているのですが、秘かな通信を傍受するとは何とインパクトのあることばでしょう。
 親鸞は龍樹の「般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。この二法よりもろもろの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす」という暗号を、「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」と傍受したのではないでしょうか。親鸞の傍受はまだ続きます。『十住論』に「またつぎに般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり」とあるのを、「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、過去の業による識別作用のこと)にあらずば、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名(光明と名号)の父母、これすなはち外縁とす」と傍受したように感じられるのです。
 名号と光明がそろっても、それに気づく信心が欠けていると何にもならないということですが、『十住論』の「無生法忍」という暗号を親鸞は「信心」と傍受しているのです。

タグ:親鸞を読む
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