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『教行信証』精読(その79) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読(その79)]

(5)本文2

 本文1につづく文です。初地が歓喜地である所以が述べられます。

 問うていはく、初地なんがゆゑぞ名づけて歓喜とするやと。答へていはく、初果1の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心つねに歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆゑにかくのごときの人を賢善者と名づくること得と。初果を得るがごとしといふは、人の須陀オン道2(しゅだおんどう)を得るがごとし。よく三悪道の門を閉づ。法を見て法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動(きょうどう)すべからず。究竟して涅槃に至る。見諦所断の法3を断ずるがゆゑに、心大いに歓喜す。たとひ睡眠し懶惰(らんだ)なれども二十九有4に至らず。一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。菩薩もかくのごとし。初地を得をはるを如来の家に生ずと名づく。一切天、龍、夜叉、軋闥婆(けんだつば、楽を奏し、仏法を護持する八部衆の一)、乃至 声聞、辟支(びゃくし、独覚あるいは縁覚と同じ)等、ともに供養し恭敬(くぎょう)するところなり。なにをもつてのゆゑに。この家過咎あることなし。ゆゑに世間道を転じて出世間道に入る。ただ仏を楽敬(ぎょうきょう、つつしみ敬う)すれば四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味もろもろの仏種を断たざるがゆゑに、心大きに歓喜す。この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といへども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆゑにこの地を名づけて歓喜とすと。
 注1 小乗の声聞が得る四果の第一。注2の須陀オン道と同じ。ちなみに第二が斯陀含(しだごん)、第三が阿那含(あなごん)、第四が阿羅漢(あらかん)。
 注2 預流果(はじめて法の流れに預かるという意味)ともいい、四諦をえて見惑(真実を見誤ることから生じる迷い)を断じた境地。
 注3 注2にある見惑のこと。
 注4 二十九生ということ。二十八回までは人天に転生することはあるが、それ以上は苦界に戻ることはない、という意味。

 (現代語訳) どうして初地を歓喜地と名づけるのでしょうか。それは小乗の声聞が初果を得ればかならず涅槃に至ることができるようなもので、大乗の菩薩が初地を得れば、いつもこころに喜びが満ちています。それは、如来の家に生まれて自然に仏となる種が育つからで、だからこのような人を賢善の人と名づけることができるのです。小乗の初果に譬えますのは、人が預流果を得ますと、地獄・餓鬼・畜生に転じる門が閉じられ、四諦の法をえて、その法に住むことで、どんなことにもぐらつかないようになり、この後かならず涅槃に至るからです。もう見惑を断じていますから、こころに大きな喜びがあります。そしてたとえどんなに怠けていても、決して二十九有にいたることはありません。それをひとつの譬えでいいますと、一本の毛を百分して、そのひとつで大海の水を分かち取ろうとするとき、たった二三滴のような苦しみがなくなるだけで、大海の水はそのままのようなものです。しかしその二三滴のような心に大きな喜びがあります。菩薩も同じです。初地をえますと、如来の家に生まれることができ、仏法を守護するという天・龍・夜叉・軋闥婆をはじめ、声聞や独覚にみなともに供養され、敬われるのです。どうしてかといいますと、この如来の家にはどんな傷もないからです。世間道を転じて出世間道に入り、ただ仏を喜び敬うだけで四功徳処と六波羅蜜の果報をえることができるのです。すばらしい味わいの仏の種がなくなることはありませんから、こころに喜びが溢れるのです。この菩薩に残っている苦しみはたった二三滴の水であり、ほとけの悟りに至るのはずっと先であるとしましても、無始よりこのかたの苦しみと比べますとたった二三滴にすぎません。なくなってしまった苦しみは大海の水のようなもので、だからこの初地をなづけて歓喜地というのです。

タグ:親鸞を読む
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