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二三渧の苦 [『教行信証』精読(その80)]

(6)二三渧の苦

 大乗の初地が歓喜地であるのは、小乗の初果(預流果)が「たとひ睡眠し懶惰なれども」かならず涅槃にいたるべき境地であるのと同じように、初地とは如来の家に生まれ、おのずから仏となるべき種が増長していく位であるからであると説明しています。それは実によく分かるのですが、その中で「あれ?」と思うのが、「一毛をもて百分となして、一分の毛をもて大海のみづをわかちとらん」という譬え(これは『大経』に出てきます)の意味が、前と後で反対になっていることです。前では「二三渧の苦」が消えるだけで、「大海のみづ」はそのまま、となっているのに対して、後においては「二三の水渧のごとき苦」が残るだけで、大海の水のような苦はすべて消えてしまうとなっています。
 二三渧の苦が消えるだけなのと、二三渧の苦だけが残るのとでは真逆ですが、どうしてこうなるのでしょうか。親鸞が龍樹の文をあえてそう読んでいるからです。前の文は普通に読みますと、「一毛をもつて百分となし、一分の毛をもつて、大海の水を若しくは二三渧分取するがごとし。苦の已に滅するは大海水のごとく、余の未だ滅せざるは二三渧のごとし。心大きに歓喜せん」となるのですが、それを親鸞は「一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心大きに歓喜せん」と読んでいるのです。一方、後の文は「この菩薩の所有の余の苦は、二三の水渧のごとし」と読むしかありませんから、前と後で意味が逆さまになってしまうのです。
 どうしてこうも平仄の合わない読み方をするのでしょう。親鸞にそう読ませてしまう何かがあるとしか言いようがありません。ここでまた「傍受」を持ち出しますと、親鸞は龍樹の文から、ひそかな暗号を傍受しているということです。文の表面上は、初地にいたると大海の水のような苦が消えて、ただ二三滴の苦が残るだけとなりますが、実は、大海の水のような苦はそのままで、たった二三滴の苦が消えるだけというメッセージが送られてきていると親鸞は傍受したのです。

タグ:親鸞を読む
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