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苦が苦であると気づくことで [『教行信証』精読(その82)]

(8)苦が苦であると気づくことで

 しかし、一方では「二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし」といい、他方では「この菩薩の所有の余の苦は、二三の水渧のごとし」というのではやはり矛盾するではないかと思います。むかしから『教行信証』の注釈者たちはこれをどう理解したらいいか苦しんできたようです。存覚の『六要鈔』(『教行信証』のもっとも古い注釈書)にはどう書いてあるかと言いますと、素っ気なく「その文点によりて義理を解すべし」(親鸞のつけた返り点にしたがって、その意味を汲み取るべし)とだけあり、その義理が矛盾することについては一切解説してくれません。
 この矛盾に折り合いをつけるために、小乗の初果においては「二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし」だが、大乗の初地においては「この菩薩の所有の余の苦は、二三の水渧のごとし」となるというように、小乗と大乗の優劣の差を明らかにしようとしていると解釈する向きもあるようです。しかしそんなケチな根性が親鸞にあったとは思えません。これまで見てきましたように、親鸞が龍樹の文をあえて独特の文点によって読んだのは、「苦のすでに滅するは大海水のごとく、余の未だ滅せざるは二三渧のごとし。心大きに歓喜せん」と普通に読むことに違和感があったからに相異ありません。
 小乗の初果にせよ、大乗の初地にせよ、「苦のすでに滅するは大海水のごとく」であるわけではなく、むしろ「苦の未だ滅せざるは大海水のごとく」で、たった二三滴の苦が滅するだけですが、その「二三渧のごとき心、大きに歓喜せん」ところに大きな意義を見いだすのが親鸞です。煩悩の苦海を生きていることに気づくことは、もうなかば以上その苦海から抜け出しているということです。としますと「苦の未だ滅せざるは大海水のごとく」であると気づくことが、そのままで「苦のすでに滅するは大海水のごとく」であることに他ならず、この二つは矛盾するどころか、同じことの裏表の関係にあるのです。

タグ:親鸞を読む
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