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『教行信証』精読(その85) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その85)]

(11)本文3

 次に『十住論』の「地相品」から引用されます。

 「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と1。かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地になかにありて心に歓喜多し。〈諸仏を念ず〉といふは、燃燈(ねんとう)等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。つねにかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にしてよく勝れたるひとましまさず。このゆゑに歓喜多し。〈諸仏の大法を念ぜば〉、略して諸仏の四十不共法2を説かんと。一つには自在の飛行(ひぎょう)意に随ふ、二つには自在の変化ほとりなし、三つには自在の所聞無礙なり。四つには自在に無量種門をもつて一切衆生の心を知ろしめすと。乃至 〈念必定のもろもろの菩薩〉は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱(えらん)することあたはず。大悲心を得て大人法3を成ず、乃至 これを念必定の菩薩と名づく。〈希有の行を念ず〉といふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。仏法無礙解脱および薩婆若智(さはにゃち、一切智)を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずれば、名づけて心多歓喜とす。このゆゑに菩薩初地に入ることを得れば、名づけて歓喜とす。
 注1 もとの『華厳経』の文は「常念於諸仏、及諸仏大法、必定希有行、是故多歓喜」で、これは、初地の菩薩はつねに「諸仏」と「諸仏大法」と「必定」と「希有行」の四つを念ずるが故に歓喜が多いという意味のようですが、親鸞は上のように読んでいます。
 注2 仏にしかない四十の功徳。
 注3 菩薩の利他の行。

 (現代語訳) 初地の菩薩はさまざまな功徳をえるがゆえに歓喜が多いので歓喜地となづけられるのでしょうが、この地が特に歓喜地と名づけられるのはどんなわけでしょうか。お答えしましょう、初地の菩薩はつねに諸仏と諸仏の大法を念じますが、それはかならず仏となることのできる希有の行です。このような因縁がありますから、初地に入りますと歓喜が多いのです。ここで「諸仏を念ずる」といいますのは、然燈仏のような過去仏、阿弥陀仏のような現在仏、弥勒仏のような未来仏を念ずることです。いつもこのような諸仏を念じますと、これらの仏たちが眼の前におわしますかの如くになります。そしてこれらの諸仏より勝れた方はどこにもおられませんから歓喜が多いのです。「諸仏の大法を念ずる」といいますのは、簡略に四十不共法で言いますと、一つにどこにでも自在に飛んで行けること、二つにどんな姿にでも自在に変わることができること、三つに自在に声を聞き分けられること、四つに自在に一切衆生の心のうちを知ることができることなど功徳を念ずることです。「念必定のもろもろの菩薩」といいますのは、もし菩薩が仏の悟りを得ることに定まりますと、不退転の位に入り、無生法忍を得ることができますから、もう千万億の魔の軍勢にも妨げられることなく、大悲の心で菩薩としての道を歩むことができます。これを念必定の菩薩と言うのです。「希有の行を念ずる」といいますのは、必定の菩薩は菩薩としての第一希有の行を念じていますから、心に歓喜があります。一切凡夫のとても及ぶところではなく、また一切の声聞・辟支のなしうることでもありません。仏の何ものにも妨げられない解脱と一切の智慧を開き示します。このように十地の菩薩の行を念じていますから、心に歓喜が多いのです。こういうわけで、菩薩が初地にいたることができれば、その人を歓喜地の菩薩というのです。

タグ:親鸞を読む
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