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希有の行 [『教行信証』精読(その87)]

(13)希有の行

 さらに「希有の行を念ずる」ということば。
 希有の行というのも、文面上は「十地のもろもろの所行の法」をさしており、十地の菩薩が修すべき十波羅蜜の行のことですが、親鸞はこのことばから「南無阿弥陀仏の大行」を聞き取っていると言わなければなりません。この行が希有であるのは「一切凡夫のおよぶことあたはざるところなり。一切の声聞辟支仏の行ずることあたはざるところ」であるからですが、それをもうひとつ踏み込んでいえば、それはわれらの行でありながら、同時に、もはやわれらの行とは言えないような体のものであるからです。凡夫の行はひたすら自力の行ですが、この希有の行は他力の行であるということです。
 南無阿弥陀仏を称えるのはわれらですが、しかしそれに先立って南無阿弥陀仏はわれらに届けられているのです。名号は、それをすでに聞かせてもらっているから(聞名)、称えることができるのです(称名)。いや、名号が聞こえていなくても、それを称えることができないわけではありませんが、それはいわゆる「空念仏」であり、中身のないただの「おまじない」に過ぎません。親鸞は「信巻」でこう言っています、「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」と。ここで「真実の信心」と言われているのは、むこうからやってくる南無阿弥陀仏の声が聞こえるということであり、それが聞こえることが取りも直さずそれを信じることです。
 このように、初地の菩薩の「希有の行」が希有である所以は、それが自力の行ではなく、他力の行であることにあると親鸞は龍樹の文から聞き取っているのではないでしょうか。だからこそ「ひと十地のもろもろの所行の法を念ずれば、なづけて心歓喜とす」と言えるのだと。これから「仏法無礙解脱および薩婆若智」を得るために一生懸命念仏するのではなく、もうすでに「仏法無礙解脱および薩婆若智」が開示されているから、その喜びがおのずから南無阿弥陀仏の声となって口からあふれ出すのです。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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