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われかならず作仏すべし [『教行信証』精読(その89)]

(2)われかならず作仏すべし

 「必定の菩薩」(これを親鸞は浄土の教えでいう「正定聚」と理解しました)についてはすでにひとつ前の引用文で取り上げられていましたが、ここで「必定」すなわち「必ず仏となるべき身と定まる」ということについてさらに掘り下げられます。初地の菩薩と、まだそこに至らないものとの違いはどこにあるかと言いますと、結局、初地に至った菩薩は「必ず仏となるべき身と定まる」が、まだ至らないものにはこの「われかならず作仏すべし」という思いが伴わないということ、これです。初地が歓喜地とよばれるのはそういうことからです。
 しかし初地の菩薩には「われかならず作仏すべし」という思いがそなわっているというのは、どういうことでしょう。
 仏となるのはこれから先のことであるにもかかわらず、「必ず」と言えるのはなぜかということです。これから先のことについては、「おそらく」あるいは「まず間違いなく」とまでは言えても、「必ず」あるいは「絶対に」とは言えないのではないでしょうか。ぼくがいつも出す例は天気予報です。「明日は100%晴れます」という予報は、明日は「必ず」あるいは「絶対に」晴れると言っているように思いますが、実はそうではありません。これまでのデータによれば明日晴れる確率が100%ということであり、これまでのデータを覆す現象が起こる可能性を排除しているのではありません。
 「これから」のことにはどこまでも蓋然性がつきまといますが、「いますでに」おこっていることは絶対に確かです。
 「数分後に大きな地震がきます」という警報は、あくまで蓋然的であることをまぬがれませんが、「いますでに地震がおこりました」というニュースには(意図的に嘘を言っているのでない限り)確実性があります。としますと、もし「われかならず作仏すべし」に確実性があるのであれば(初地の菩薩の歓喜はそこから生まれます)、それは「これから」のことではなく、「いますでに」のことでなければなりません。しかし仏になるのが「これから」であることは動きませんから、「いますでに」おこっていることが何かあるはずです。さて、それは何か。

タグ:親鸞を読む
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