SSブログ
『教行信証』精読(その91) ブログトップ

仏の「しるし」 [『教行信証』精読(その91)]

(4)仏の「しるし」

 必定の菩薩(親鸞的には正定聚です)には、仏の「しるし」があらわれているということ、この点についてもう少し考えてみたいと思います。この「しるし」は外に見えるものではなく、本人が気づいているだけのかすかな「しるし」です。これまでつかってきた「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」ということばで言いますと、「わたしのいのち」は誰にも見えます。みなそれぞれに「わたしのいのち」をもち、それを何よりも大事にしています。「いのちあってのものだね」と言うときの「いのち」で、これがなくなればすべてが消えてしまう肝心要のものです。
 それに対して「ほとけのいのち」は、どこかにあって誰にも見えるようなものではありません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると気づいたとき、はじめてその姿をあらわすのです。これが必定の菩薩には仏の「しるし」があらわれるということです。必定に入るということ(正定聚になるということ)は、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であると気づくことで、それが仏の「しるし」があらわれることに他なりません。ですからこの「しるし」はそれに気づいた人にしかなく、気づかなければどこにもありません。
 「われかならず作仏すべし」とは言うものの、仏になるのは「これから」ですから、それはあくまで「おそらく」、あるいはせいぜい「まず間違いなく」にすぎません。しかし必定の菩薩には「いますでに」仏の「しるし」があらわれています。それはもう天地がひっくり返っても確かなことですから、「その心歓喜おほし」です。そこから言いますと、「われかならず作仏すべし」だから「歓喜おほし」と言うよりも、「いますでに」仏の「しるし」があらわれているから「歓喜おほし」と言うべきです。たとえ実際には仏になれないとしても、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているのですから、それはそれでいいではありませんか。親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(『歎異抄』第2章)と言うのは、その気持ちからに違いありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その91) ブログトップ