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三縁の慈悲 [『教行信証』精読(その94)]

(7)三縁の慈悲

 さて、信心の深まりとともに、慈悲のこころも深まっていきます。「菩薩、初地にいればもろもろの功徳の味ひをうる」という自利と、「慈心はつねに利事をもとめて衆生を安穏す」という利他とは一体不離です。引用は「慈に三種あり」で切られていますが、その三種といいますのは、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の三つです。この三種の慈悲について曇鸞が『論註』でこう述べています、「慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆへなればなり」と。親鸞は「真仏土巻」でこの文を引用しています。
 慈悲のこころがどんなときに働くかを考えてみますと、そこには何らかの繋がり(縁)があるものです。いちばん強く働くのは血縁のものに対してで、それが友人・知人へ、さらには地縁へと広がっていくでしょう(衆生縁です)。そのことに思い至りますと、そんな繋がりがなくても「一切衆生のために」慈悲をはたらくのがほんとうであると思います。差別のない慈悲こそ真の慈悲ではないか、と(法縁です)。さあしかし、ここにおいても「ねばならない」という意識が立っています。規範としての慈悲から離れてはいません。
 それに対して、もう慈悲をはたらくという思いなどないのに、慈悲のはたらきとなっているのが無縁の慈悲です。
 これはもう「われらの慈悲」とは言えない慈悲です。「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なり」(『歎異抄』第8章)とありますように、無縁の慈悲は「わがはからひにてつくる」慈悲ではありませんから、非慈悲と言わなければなりません。「ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに」、われらにとって非慈悲です。
 『論註』に「安楽浄土はこの大悲より生ぜる」とありますように、弥陀の慈悲こそ大悲であり、それがわれらに「おいて」あらわれたものが無縁の慈悲です。

タグ:親鸞を読む
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