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とく不退転地に至らんとおもはば [『教行信証』精読(その96)]

(9)とく不退転地に至らんとおもはば

 これまでの「入初地品」、「地相品」、「浄地品」からの引用文は、菩薩が初地に入るというのはどういうことかをさまざまな角度から明らかにするものでした。初地とは仏の家に生まれることであり、したがってそれは歓喜地に他ならないこと、その喜びは初地に入ると必ず仏となることに定まるから生じるということ(必定)、そして必定の菩薩は仏への信を深め、また大悲のこころをもって衆生を安穏にするということが縷々述べられてきました。そしてこの「易行品」にきて、菩薩が必定(ここでは阿惟越致すなわち不退とでてきますが同じです)に入るのに難行道と易行道があるとし、「もしひととく不退転地に至らんとおもはば、恭敬の心をもて執持して名号を称すべし」と説かれるのです。
 浄土教において注目されるのが、「易行品」におけるこの教説であることはすでに述べました。全17巻、35品の『十住論』から、第5巻の第9「易行品」を特に取り出し、ここに浄土の教えが説かれているとされるのです(浄土真宗聖典の「七祖著作」の第一に『十住論』が取り上げられますが、ただこの「易行品」に限定されています)。そして「易行品」における説き方も、「信方便の易行をもて、とく阿惟越致にいたる」ことについては、かなり微妙な言い回しがされていることを見逃すわけにはいきません。
 この引用文の前に次の一節があります、「汝、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得ることありやといふは、これすなはち怯弱下劣(こうにゃくげれつ)の言なり。これ大人志幹(だいにんしかん)の説にあらず。汝、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし」と。阿惟越致地に至るのは「ほんとうは」はなはだ難しく、久しい修行によってようやくできることであり、そこに易行によって疾く至ろうなどというのは大志をいだく大人の考えることではないが、それでもと言うのなら「特別に」説くことにしよう、と言っているのです。  
 「怯弱下劣」ということばには複雑な感慨がおこらざるをえませんが、ともあれこの後に、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし」という有名な一段が続くのです。

タグ:親鸞を読む
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