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阿弥陀仏? [『教行信証』精読(その97)]

(10)阿弥陀仏?

 「易行品」から飛び飛びに引用されていますので、その流れが分かりにくいかもしれません。大きく三つの部分に分けて要約しますと、第一に、阿惟越致(あゆいおっち、不退転)に至るには難行道と易行道があるとし、第二に、易行により疾く阿惟越致に至るには、十方諸仏の名号を称えるべきであるとされます。とりわけ西方の無量明という仏を上げ、その名を聞くものは直ちに不退に至ると言われます。そして第三に、過去無数劫(むしゅこう)に海徳という名の仏がおわし、現在の十方諸仏(そのなかに無量明も含まれます)はみなこの海徳仏にしたがって願を立てたと述べられます。
 理解しづらいのが、第二のところで出てくる無量明という仏と、第三のところの海徳という仏の関係です。龍樹にとっては、海徳は過去無数劫の仏であり、無量明はその教えをうけた現在仏の一人ということで問題ないのですが、それを引用している親鸞のこころのうちはどうであったのか、これが気になるところです。親鸞が十方諸仏のなかで特に西方の無量明を取り出して引用したのは、この仏を阿弥陀仏と見ているからであるのは明らかでしょう。親鸞が依拠する『大経』と、龍樹が引き合いに出す『宝月童子所聞経』とではさまざまな違いがあっても、西方の仏であること、その名が無量明であることからして、親鸞としてはこの仏が阿弥陀仏であることは動かないところです。
 としますと海徳仏はどうなるのでしょう。「易行品」では、十方の諸仏を讃嘆したのち最後に(いわばついでのように)、これら十方の諸仏はみな海徳という名の過去無数劫におわした仏の教えにしたがって願を立てたと述べられているのですが、親鸞はあえてこの部分を引用しているのです。その気持ちを忖度してみますに、現在の十方諸仏がみなそれにならったとされる海徳の本願が、阿弥陀仏の本願と見事に重なりあうからに違いありません。「寿命が無量であること」、「光明が無量であること」、「国土が清浄であること」、そして何より「名を聞いたものはかならず往生できること」、これで弥陀の四十八願がカバーされるではありませんか。ここに親鸞の目が吸い寄せられたであろうことは容易に推測できます。

タグ:親鸞を読む
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