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阿弥陀仏の本願 [『教行信証』精読(その100)]

(13)阿弥陀仏の本願

 しかし親鸞はそんなことを気にする様子はありません、彼独自の読み(聞き取り)をしていくだけです。
 「易行品」のもとの文を見てみますと、無量明仏などの十方諸仏だけでなく、他にも「阿弥陀等の仏、および諸大菩薩」の名を称すれば不退転をえることができるとした上で、それにつづいて阿弥陀をはじめとする仏たちの名をずらっと上げています。その部分を普通に読みますと、「いままさにつぶさにとくべし。無量寿仏、世自在王仏、…宝相仏(あわせて107仏もの名が上げられます)、この諸仏世尊、現に十方の清浄世界におわしてみな称名憶念せしむ。阿弥陀仏の本願もかくの如し」となるのですが、それを親鸞は上にありますように、「いままさにつぶさに無量寿仏をとくべし。世自在王仏(乃至その余の仏あり) この諸仏世尊、現在十方の清浄の世界に、みな名を称し、阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし」と独自の読み方をしているのです。
 違いは明らかでしょう。もとの文脈においては、阿弥陀仏はその他の仏たちのなかの一仏にすぎないのですが、親鸞は阿弥陀仏(無量寿仏)を、世自在王仏をはじめとする106仏から区別して、その仏たちは阿弥陀仏の本願・名号を憶念称名すると解するのです。この読み方はここだけを見ますと、いかにも無理筋といわなければなりません。十方諸仏だけでなく、それ以外の仏たちの名を称えることでも不退に至ることができるとして、それ以外の仏たちの筆頭に阿弥陀仏を上げているだけと解するのが自然です。その意味で、阿弥陀仏は「ワンノブゼム」にすぎません。
 しかし親鸞のように読みたくなる気持ちも分からないではありません。といいますのは、107仏の名を上げた後に、特に阿弥陀仏の本願に言い及んでいるからです、「もし人われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定にいりて阿耨多羅三藐三菩提をう」と。これはまさに弥陀の第18願そのものです。そして、さらにその後で阿弥陀仏をかなり長い偈文で讃嘆していくのですが、その流れからしますと、龍樹自身が阿弥陀仏を特別視していることは明らかで、阿弥陀仏を多くの仏たちの「ワンノブゼム」とすることの方が無理であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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