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『教行信証』精読(その101) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読(その101)]

(14)本文5

 龍樹『十住論』の最後は、その阿弥陀仏を讃える偈文です。

 偈をもつて称讃せん。無量光明慧、身は真金の山のごとし。われいま身口意をして、合掌し稽首し礼したてまつると。乃至 人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。乃至 もし人、仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現じたまはん。このゆゑにわれ、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、来りて供養し法を聴く。このゆゑにわれ稽首したてまつると。乃至 もし人善根を種ゑて疑へば、すなはち華開けず。信心清浄なるものは華開けてすなはち仏を見たてまつる。十方現在の仏、種々の因縁をもつて、かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつると。乃至 かの八道1の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫にその功徳を讃揚せんに、なほ尽くすことあたはじ。清浄人を帰命したてまつる。われいままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。この福の因縁をもつて、願はくは仏、つねにわれを念じたまへ」と。抄出
 注1 八聖道のこと。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。

 (現代語訳) 偈で称讃したいと思います。阿弥陀仏は無量の光の仏であり、その身は黄金の山のようです。わたしはこの仏を身口意をあげて合掌し礼拝したてまつります。(中略)この仏の無量の本願力を信じれば、ただちに必定に入ることができます。ですからわたしはこの仏をつねに信じたてまつります。(中略)もし人が仏になろうと願い、阿弥陀仏を信じれば、そのときに阿弥陀仏はその身をあらわしたまう。ですからわたしはこの仏の本願力に帰命します。あらゆる世界の無量の菩薩たちも来たってこの仏を供養しその法を聞いています。ですからわたしはこの仏を礼拝したてまつります。(中略)もし人がさまざまな善をつんで仏になろうとしても、そこに疑いがありましたら華が開くことはありません。まじりけのない信心があってはじめて華が開き仏と遇うことができるのです。いま十方世界におわします仏たちはさまざまな因縁でこの仏の功徳を讃嘆されています。ですからわたしはこの仏に帰命し礼拝したてまつります。(中略)八正道の船に乗ることでこの迷いの海を渡ることができますが、この仏はみずから渡り、また衆生を渡してくださいます。ですからわたしはこの仏を礼拝したてまつります。諸仏がどれほどの時間をかけてこの仏の功徳を讃嘆しようともし尽くせるものではありません。ですからこの清浄の仏を帰命したてまつるのです。わたしもまたそのようにこの仏の無量の徳をほめたてまつります。願わくはこの仏がわたしのことを護念してくださいますように。

タグ:親鸞を読む
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