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即の時に必定にいる [『教行信証』精読(その102)]

(15)即の時に必定にいる

 阿弥陀仏を讃える龍樹の偈文はかなりのボリュームですが、親鸞はそこから飛び飛びに引用しています。偈で詠われている内容は多岐にわたりますが、親鸞にとってその核心は「人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちの時に必定にいる(即時入必定)」という一節にあると思われます。それは、親鸞が「正信偈」において龍樹を讃えて「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定にいる(憶念弥陀仏本願、自然即時入必定)」と詠っていることからもうかがえます。多少ことばは違うものの、言っていることはぴったり重なります。
 龍樹の偈文では「この仏の無量力功徳を念ずれば」と言われ、「正信偈」では「弥陀仏の本願を憶念すれば」と言われます。この「念ずれば」も「憶念すれば」も、ぼく流に言い換えれば「気づけば」ということで、弥陀の本願・名号が聞こえてくればということに他なりません。あるときふと弥陀の本願・名号が聞こえてきて(これまたぼく流には「帰っておいで」と聞こえてきて)、そのときです、「すなはちの時に必定にいる」。親鸞がこの文から現生正定聚を読み取ったのは疑えないところです。
 あらためて確認しておきますと、必定とは「必ず仏となることが定まる」ということであり、正定聚とは「正しく仏となることに定まった仲間たち」ということですから、両者は同義です。弥陀の本願・名号に遇ったそのとき(すなはちの時)正定聚となる、ここに親鸞浄土教のエッセンスがあることに異論はないでしょう。親鸞は『大経』からそのことを読み取り(聞き取り)、それを龍樹のこの文で裏づけられたと感じて歓喜踊躍したに違いありません。正定聚となるのは(往生がはじまるのはと言いかえることができますが)、いのち終わってからのことではなく、本願・名号が聞こえたそのときであるということを龍樹に同意してもらったのです。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という『歎異抄』冒頭の一文はその喜びをうたい上げています。

                (第8回 完)

タグ:親鸞を読む
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