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願うより前に願われている [『教行信証』精読(その106)]

(4)願うより前に願われている

 『浄土論』は紛れもなく天親が弥陀の浄土の荘厳を讃嘆し、そこに往生することを願ってあらわした書物です。願生の詩です。そしてその詩をみずから解説するなかで、浄土へ往生しようとすれば、五念門を一つひとつクリアしていかなければならないと説いています。ところがそれを読んでいくうちに、われらが五念門をクリアしなければならないのではなく、すでに法蔵菩薩がそれを成し遂げてくれていると思えてくるのです。五念門はわれらに「課されている(aufgegeben)」のではなく、すでに「与えられている(gegeben)」ということです。
 曇鸞の教えてくれるところによれば、「安楽国に生ぜんと願ず」ことの中に礼拝門・讃嘆門・作願門が含まれており、そしてそれによりそれぞれ近門・大会衆門・宅門に入ることができるのです。近門に入るということは「安楽世界に生ずること得」ることであり、大会衆門に入るとは「大会衆(浄土の仲間)の数に入ること得」ること、そして宅門に入るとは「蓮華蔵世界に入ることを得」ることに他なりません。つまり「安楽国に生ぜんと願ず」ことで、ただそれだけでもう安楽国に生まれることができ、浄土の仲間の一員となるということです。これは途方もないことと言わなければなりません。
 ぼくらが願うことは、願うだけでもうそれが実現するなどということはありません。願わなければ実現しませんが、願うだけでは実現しません、それにふさわしい努力が求められます。ところが「安楽国に生ぜんと願」うだけで、もうそれだけで「安楽世界に生ずることを得」るというのです。どうしてそんな途方もないことが言えるのか。答えはひとつです。ぼくらはもうすでに安楽世界に生じているのです。これまではそのことに気づいていなかっただけで、もうとうの昔から安楽世界の中にいたのです。安楽国に生まれたいと願うだけで安楽国に生まれることができるということは、その願いをもつとき、もうずっと前から安楽国に生まれていることに気づくということです。
 ぼくらが往生を願うには違いありませんが、それに先立ってすでに往生が願われていて、その願いはとうの昔に成就していることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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