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遇うということ [『教行信証』精読(その107)]

(5)遇うということ

 そのことをピタッと言い当てているのが第2の文、「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」です。
 仏の本願力に「遇ふ」という言い方がされていること、これは親鸞に並々ならぬ印象を与えたに違いありません。その反映は『教行信証』の「序」にはっきり見て取ることができます。「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、とをく宿縁を慶べ」、「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」といったことばで、仏の本願力に遇うことができた喜びを精一杯謳いあげています。
 仏の本願力は「こちらから」会いたいと思って会えるものではありません。「むこうから」やってくる本願力に「たまたま」遇うのです。
 「会う」と「遇う」。あらためてその違いを確認しておきますと、何かに「会う」ためには、それが何であるかをおぼろげにでも知っていなければなりません。何も知らないものに会おうとするのは漆黒の闇に向かって鉄砲を放つようなもので、徒労に終わります。ですから、何かに「会おう」とするなら、事前にできるだけ相手のことを知る努力をしなければなりません。ところが何かに「遇う」ときは、遇うまでそれが何であるかをまったく知りません。遇ってはじめて「ああ、遇えたのだ」と気づくのですから、相手のことを知りようがないのです。未知のものに「遇う」のです。そして遇ったとき「ああ、これだ、これにようやく遇えたのだ」と思う。
 これは考えれば考えるほど不思議です。どうしてこれまで遇ったこともないものに遇うことができるのか。どうして未知のものなのに「ああ、これだ」と思えるのか。

タグ:親鸞を読む
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