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『教行信証』精読(その109) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読(その109)]

(7)本文2

 次に曇鸞『浄土論註』からの引用です。

 『論の註』にいはく、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、菩薩、阿毗跋致(あびばっち、不退転のこと。阿惟越致と同じ)を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毗跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途(みち)あり。ほぼ五三をいひてもつて義の意(こころ)をしめさん。一つには外道の相善(しょうぜん、相似の善)は菩薩の法をみだる。二つには声聞は自利にして大慈悲を障(さ)ふ。三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。四つには顛倒の善果よく梵行(ぼんぎょう、清浄な行)を壊(え)す。五つにはただこれ自力にして他力の持(たも)つなし。これらのごときの事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しきがごとし。易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毗跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとしと。この『無量寿経優婆提舎(うばだいしゃ、論のこと)』は、けだし上衍(じょうえん、衍は乗の意味で、上衍で大乗のこと)の極致、不退の風航(ふうこう、風をはらんで航行する船)なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。のちの聖者婆数槃頭(ばそばんず、ヴァスバンドゥ、中国で天親とよばれる。玄奘以後は世親とよばれる)菩薩、如来大悲の教を服膺(ふくよう)して、経に傍へて願生の偈を作れり」と。以上 
 注 『大経』と『観経』はマガダ国の王舎城で説かれ、『小経』は舎衛国(コーサラ国)の祇園精舎で説かれた。

 (現代語訳) 『浄土論註』にこうあります、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』によりますと、菩薩が不退転地に至るのに、二つの道があります。一つは難行道、二つは易行道です。難行道といいますのは、仏のいまさぬこの五濁悪世において不退転地に至るのは困難なことです。その困難のいくつかを上げますと、まず仏教外の似非の教えが菩薩の修行を乱すということがあります。二つ目に小乗の声聞道は自利だけを求めて大慈悲を妨げます。三つ目に周りを顧みることのない悪人が修行を邪魔します。四つ目に天・人に生まれることに執着して、仏道を損なうことになります。五つ目にただ自力だけで、他力に支えられることがありません。このようなことはもう言うまでもなく明らかで、たとえて言いますと、陸路を歩いていくのが苦しいようなものです。一方、易行道といいますのは、ただ仏を信じるという因縁を得て、浄土に往生したいと願うことです。仏の本願力に乗ることでただちに浄土に往生することができます。仏力に支えられ、そのまま正定聚になるのです。正定聚とは不退転のことですから、これをたとえていいますと、水路を船でいくのが楽しいようなものです。さてこの『無量寿経優婆提舎』すなわち『浄土論』は、思うに大乗の極地であり、不退転に赴く帆掛け船のようなものです。「無量寿」とは安楽浄土の如来・阿弥陀仏の別号で、釈迦牟尼仏は王舎城や舎衛国においてこの無量寿仏のすばらしい功徳を説いて下さいました。ですから、それらの功徳が詰まった名号こそ浄土の経典のエッセンスと言えます。その後に婆数槃頭菩薩すなわち天親菩薩があらわれ、釈迦如来の大悲の教えを服膺され、経典にそえて願生の偈を造られたのです。

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