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自力と他力 [『教行信証』精読(その111)]

(9)自力と他力

 このように、この部分は『論註』の序にあたり、短いことばに全体が凝縮されていますから、その意味するところがそれほどはっきりしているとはいえません。それはこの後、この書全体で明らかにされていくわけですが、途中で道に迷わないよう、前もって必要なことを述べておきたいと思います。自力と他力の対立軸のことです。他力ということばはここで出てきたあとはあまり表面化しないまま注釈が進められていきます。そして最後のところで他力の本質が一挙に明かされることになります。このように他力の思想は『論註』の底流をもぐったままで、最終段となってはっきり姿をあらわし、そこからあらためて全体を見返してみますと、書物のすべてを貫いていることが明らかになるのです。
 それはこの書物が注釈しようとしている『浄土論』の性格に関わります。すでに見てきましたように、『浄土論』は「われら仏道修行者(菩薩)が如何にして疾く阿耨多羅三藐三菩提に至ることができるか」を説く書物です。そのためには礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門を修することが必要であり、その果として近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門の五功徳門を得ることができると論じていくのでした。そこからしますと、この書物はあくまでわれらのなすべき行について説いているのであり、どこにも他力の入る余地がないように見えます。
 ところがこの『浄土論』という書物が不思議なのは、読んでいるうちに、天親をふくめたわれら修行者について説いているのではなく、法蔵菩薩のことを述べているように感じられてくるところです。五念門はわれらがなさければならない行ではなく、法蔵菩薩がわれらのためにすでになしてくれた行であると。法蔵が五劫思惟し、兆載永劫修行して、われらの往生のために本願・名号を用意してくださり、われらはそれに乗ずることで浄土往生することができるのだと。こうして一気に他力の世界が目の前に広がるのです。このように、いつの間にか、天親(われら)と法蔵がダブって見えてくるところに『浄土論』という書物の不思議な魅力があります。

タグ:親鸞を読む
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