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水路の乗船 [『教行信証』精読(その112)]

(10)水路の乗船

 曇鸞はそこに目をつけ、浄土の教えの根幹に自力と他力の対立軸を据えたということができます。
 そこで、のちに明らかにされる他力の本質について、その一端だけでも前もって述べておこうと思います。そうすることで『論註』の言っていることが、ひいては『浄土論』そのものが少しでも理解し易しくなると思うのです。曇鸞は『論註』の最終段で、あらためてこう問います、五念門を修することで「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得といへる」のはどういうわけか、と。それに答えて、『浄土論』には「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑ」と書いてあるのだが、実を言うと(「覈(まこと)に其の本を求むるに」)、「阿弥陀如来を増上縁となす」と言うのです。
 われらが五念門を修することで自利・利他の行が成就されるから速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのは間違いないことだが、それもしかし実を言えば阿弥陀如来の本願力によるのだということです。われらは「みづから」修行することで阿耨多羅三藐三菩提に至ると思っているが、そしてそれが間違っているわけではないが、しかしよくよく考えてみると、それもこれもみな弥陀の本願力のなせるわざであるということ。これを「水路の乗船」という優れた譬えで考えてみましょう。
 もうかなり前になりますが、北欧の旅をしたとき、スウェーデンからフィンランドまで、何万トンだったか、とにかく巨大なクルーズ船でバルト海を渡ったことがあります。乗船しますと、船の中に広がっている光景はちょっとした街並みで、広い街路の両脇にさまざまなしゃれたお店が軒を連ねています。目を見張りながらそこらあたりを歩き回っていますと、気づかない間に船はもう出航していました。ふと窓の外が目に入り、そこを景色が流れていることで船が動いていることに気づいたのです。そんな調子で、ごく普通に街中で生活するように過ごしている間に、船はぼくらをヘルシンキまで運んでくれました。

タグ:親鸞を読む
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