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帰命ということ [『教行信証』精読(その115)]

(13)帰命ということ

 本論に入り、『浄土論』冒頭の一文、「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」の注釈がはじまります。曇鸞の慧眼はこの一文に、天親いうところの五念門のうち、礼拝・讃嘆・作願の三門が入っていることを見いだします。これは阿弥陀仏の名号を称えるだけで、そこに礼拝も讃嘆も作願も含まれているということを意味します。天親は『浄土論』の冒頭において、みずから称名念仏をすることにより、礼拝・讃嘆・作願の行をなしているということです。
 この引用文を読む限り、天親が無礙光如来に向かって礼拝し、讃嘆し、作願しているとしか受け取ることができません。ベクトルはあくまで行者(天親)から無礙光如来へと向かっていて、無礙光如来から行者へ向かう線はまったく見えません。それは隠れたままですが、親鸞は注(煩わしくなるので本文では略しましたが、親鸞はところどころに頭注をつけています)により、その逆のベクトルの存在を匂わしています。すなわち、帰命の「命」について、「眉病の反、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と注釈しているのです(反とは反切の略で、未知の字の音を既知の二字で表す方法のこと。この場合「命」の発音が「みょう」であることを示しています)。
 ここに命の意味として使・教・道・信・計・召の六つが上げられています(後にでてくる有名な「六字釈―南無阿弥陀仏の六字についての注釈」においては、これにさらに業と招引が加わります)が、まず使と教は「しむ」と使役をあらわす文字で、言うまでもなく他力を意味します。そして道はものを「いう」ということから「おおせ」ということ、信は「たより」、計は「はからい」、そして召は「よぶ」で、いずれも「むこうから」はたらきかけがあり、それを受けることを意味します。命は、端的に言って「~せよ」という命令です。「上官の命を受けて、任務を全うした」などと言うときの命です。
 以上から、帰命とはすなわち「命にしたがう」ことであることが明らかになります。「尽十方無礙光如来に帰命したてまつる」と言うことは、「尽十方無礙光如来の命にしたがいます」と言うことに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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