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『教行信証』精読(その117) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読(その117)]

(15)本文4

 本文3のつづきです。

 問うていはく、大乗経論のなかに、処々に衆生畢竟無生(ひっきょうむしょう)にして虚空の如しと説きたまへり。いかんぞ天親菩薩、願生とのたまふやと。答へていはく、衆生無生にして虚空の如しと説くに二種あり。一つには、凡夫の実の衆生を謂(おも)ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有(あらゆること、あるということ)なけん。亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、所有なきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。問うていはく、なんの義によりて往生と説くぞやと。答へていはく、この間の仮名の人(けみょうのにん、実体のないものに仮に名前をつけたもの)のなかにおいて五念門を修せしむ。前念と後念と因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異をえず。前心・後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならば則ち因果なけん。もし異ならば則ち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。論(『中論』など)のなかに委曲(詳しい)なり。第一行の三念門を釈しをはんぬと。乃至

 (現代語訳) 大乗の経典や論書のいたるところに、生きるものはつまるところ無生であり虚空のようであると説いてありますが、天親菩薩はどうして願「生」と言われるのでしょうか。お答えします。生きるものは無生であり虚空のようであると言われるのには二つの意味があります。一つは、凡夫は生きるものはそれ自体としてあるものであり、実の生死があると思うものですが、そんなものは実際にはなく、それは亀の毛のごとく、虚空のようであるということです。もう一つは、ありとあらゆるものは因縁によって生じるということで、これを不生といい、実体のないことを虚空のようであるというのです。天親菩薩が願生と言われるのは、後者の因縁生のことで、因縁によりますから、仮に生と言っているのであり、凡夫が生きるものは実体であり、実の生死があると思うのとはまったく違います。では、どうして「往」生と言われるのでしょう(「往」生も「来」生も迷妄ではないのでしょうか)。お答えします。この世界の仮の人が五念門を修するにあたり、前念が因となり後念に相続していきますが、この穢土の仮の人と浄土の仮の人は、決してひとつではありませんが、しかし決してまったく異なるわけでもありません。前念と後念も同じです。どうしてかといいますと、もしひとつでしたら、そこに因と果があることができませんし、もしまったく異なりましたら相続するとは言えません。これは「一でもなく異でもない」とする考えであり、龍樹菩薩の『中論』などに詳しく出ています。以上で、第一行の三念門についての注釈が終わりました。

タグ:親鸞を読む
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