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往生とは [『教行信証』精読(その118)]

(16)往生とは

 この一節は龍樹の学徒たる曇鸞らしさがあふれています。往生という浄土教の根幹をなすことばについて、空の立場から疑義を出し、それにみずから答えているのです。
 二つの問答からなっています。まず、往生とは浄土に「生まれる」ということだが、そもそも仏教においては「無生」と教えているではないか、どうして天親菩薩ともあろう方が「浄土に生まれたい」などと言われるのだろうか、という問いです。これは本質的な問いでしょう。ぼくらはともすると、どこかに極楽浄土というすばらしい世界があり、そこにいのち終わってから生まれさせていただくというようにイメージします。これはとりわけ『観経』からくるものですが、こんなふうに思い描くのは「生まれる」ことを実体化しているのではないだろうかという根本的な疑義です。
 曇鸞は答えます、天親は生死を実体化しているのではなく、あくまで因縁生にすぎないものを仮に生まれると言っているだけであると。これだけではよく分かりませんが、龍樹の空観を背景に考えますと、次のように理解することができます。あらゆるものは縦横無尽の繋がり(因縁)のなかにあるから、そこからひとつだけ独立に取り出して、それが生じた(生まれた)とか滅した(死んだ)とか言うことは意味がないが(不生不滅です)、縦横無尽の繋がりのなかである因縁をとらえて、それを仮に「生まれる」ということはできる、と。天親が願生というのはその意味だというのです。
 二つ目の問いはこうです、往生とは浄土へ「往く」ということだが、そもそもあちらへ往くもこちらへ来るもないのではないか、と。こちらに穢土があり、あちらに浄土があって、こちらからあちらに「往く」というのも、先ほどと同じように穢土と浄土を実体化しているのではないかという疑義です。これに対しては穢土と浄土は「一にあらず、異にあらず」と答えます。もし穢土と浄土が一ならば、何の変化もなくノッペラボーということになり、もし両者が異ならば、連続ということが考えられません。昨日のぼくと今日のぼくは一ではありませんが(多少の変化があります)、しかし異ではありません(同じぼくです)。同じように、穢土と浄土も一ではないが、異でもありません。

タグ:親鸞を読む
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