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無生の生 [『教行信証』精読(その119)]

(17)無生の生

 曇鸞がこの一節で言おうとしているのは、往生というものを実体化してとらえてはならないということです。それを彼は「無生の生」ということばで表現します。
 かなり先のところになりますが、曇鸞は浄土往生についてこう言っています、「かの浄土とは、阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かす」と(三有は三界と同じで、迷いの世界のことです)。三有虚妄の生とは輪廻転生のことですから、曇鸞がここで言っているのは、往生は転生とはまったく違うということです。ぼくらはともするとたとえば人間が畜生に転生するように、穢土から浄土へ往生するとイメージしてしまいますが、これは往生を転生と同一視し、ひいてはそれを実体化することに他なりません。
 では往生が「無生の生」であるとはどういうことか。穢土の生は穢土の生のままで浄土の生でもあるということです。穢土の生と浄土の生はもちろんひとつではありませんが、しかしまったく異なるわけでもないということです。これでは分かりにくいので、ぼく流に言い換えますと、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」でもあるということになります。「わたしのいのち」は他の無数のいのちたちとは異なるかけがえのないいのちですが、でも同時に他の無数のいのちたちとひとつにつながる「ほとけのいのち」でもあるということ。これに気づくのが往生であり、「無生の生」ということです。
 往生を転生と同一視しますと、それはいのち終わるときのことになります。ぼくらが人間から畜生に生まれ変わるのは、言うまでもなく人間としてのいのちが終わってからのことであるように、浄土に往生するのももちろん来世のこととなります。しかし往生とは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくことであるとしますと、それは今生ただいまのことであり、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)です。弥陀の本願に遇えたそのときに「無生の生」がはじまり、往生の旅がはじまるのです。

タグ:親鸞を読む
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