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『教行信証』精読(その121) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読(その121)]

(19)本文5

 『論註』からの引用がつづきます。『浄土論』の第2行の注釈です。

 我依修多羅(がえしゅたら) 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応とのたまへりと。乃至 いづれのところにか依る、なんのゆゑにか依る、いかんが依ると。いづれのところにか依るとならば、修多羅(しゅたら、スートラ、経のこと)に依るなり。なんのゆゑにか依るとならば、如来すなはち真実功徳の相なるをもつてのゆゑに。いかんが依るとならば、五念門を修して相応せるがゆゑにと。乃至 修多羅は十二部経のなかの直説のものを修多羅と名づく。いはく四阿含(しあごん、小乗経典、『長阿含』、『中阿含』、『雑阿含』、『増壱阿含』のこと)、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)等のほかの大乗の諸経をまた修多羅と名づく。このなかに依修多羅といふは、これ三蔵のほかの大乗修多羅なり。阿含等の経にはあらざるなり。真実の功徳相とは、二種の功徳あり。一には有漏(うろ、漏は煩悩のこと)の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人天の諸善、人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顚倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事(衆生を済度する仕事)を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顚倒せず、虚偽ならず、真実の功徳となづく。いかんが顚倒せざる。法性によりて二諦(にたい、世俗諦‐ことばであらわされた真理‐と真諦‐ことばをこえた真如実相‐)に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄(ひっきょうじょう、完全な悟りのこと)に入るるがゆゑなり。説願偈総持与仏教相応とは、持は不散不失に名づく。総は少をもつて多を摂するに名づく。乃至 願は欲楽往生に名づく。乃至 与仏教相応とは、たとへば函蓋相称(かんがいそうしょう、箱と蓋がぴったり合う)するがごとしと。乃至

 (現代語訳) 「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説き、仏教と相応せり」といわれます。(中略)この「よりて」といいますのは、何により、なぜよるのであり、どのようによるのでしょうか。何によるかといいますと、釈迦の説かれた経典によります。なぜよるのかといいますと、それは如来の真実の功徳を説いてあるからです。そしてどのようによるかといいますと、五念門を修めて仏の教えに相応するようによるのです。(中略)修多羅といいますのは、十二部経のなかの、仏の教えを直に説いてあるものを言います。小乗の四阿含や三蔵など以外の大乗の諸経典も修多羅といいます。ここで修多羅によるとありますのは、三蔵など以外の大乗の経典のことで、阿含などの経ではありません。真実功徳相と言うときに、二種類の功徳があります。一つは煩悩の心から生まれ真如法性にかなっていない功徳で、凡夫人天の功徳はその因も果も顚倒しており、虚偽であると言わなければなりませんから、不実の功徳と名づけます。二つは菩薩の清浄な智慧から生まれたもので、衆生済度のはたらきをします。これは法性にそい清浄なすがたをしています。これは顚倒せず、虚偽でもありませんから、真実の功徳と名づけます。どうして顚倒していないかといいますと、法性にそい二諦に順じているからです。どうして虚偽ではないかといいますと、衆生を摂取して涅槃へと導くからです。「願偈総持を説き、仏教と相応せり」の「持」とは、「散らさず失くさない」ということで、「総」とは少ないことばで多くを収めるということです。(中略)「願」とは往生を願うということです。(中略)「仏教と相応せり」といいますのは、たとえば函と蓋が合うように、仏の教えとぴたりと合っているということです。

タグ:親鸞を読む
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