SSブログ
『教行信証』精読(その123) ブログトップ

牽強付会? [『教行信証』精読(その123)]

(21)牽強付会?

 この文で注目しなければならないのは、ここでも親鸞は普通の読みとは違う読み方をしていることです。「回向為首得成就大悲心故」は「回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑに」と読むのが自然ですが、親鸞は「回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」と読み、また「作願共往生阿弥陀如来安楽浄土」は「ともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり」と読むところを、「作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と読んでいるのです。
 違いは明らかでしょう。普通の読み方ではわれら行者が作願し回向するのですが、そしてそれが『論註』の(そして『浄土論』の)基本的スタンスですが、親鸞的には、作願し回向するのは法蔵菩薩であることになります。主体は行者としての天親菩薩であったはずなのに、いつの間にか法蔵菩薩に成り代わっているのです。しかし、そんな勝手な読みは許されるのでしょうか。それは牽強付会というもので、普通はあってはならないことであり、ましてや教えについての大事な文書を自己流に読み替えるのはもってのほかです。
 しかし親鸞は『論註』を、その最後の結論部(いわゆる「覈求其本―かくぐごほん―章」)から逆さに読んでいるのです。
 曇鸞は最後の最後のところで、われらがみづから修行を積むことで往生をえるといっても、「実を言うと(覈求其本)」、その背景に弥陀の本願力(「阿弥陀如来の増上縁」)が働いているのだと浄土の教えの深奥を明かしてくれたのでした(10)。そこで親鸞はその眼で再度『論註』を読み直していくのです。そうしますと文中の菩薩は言うまでもなく天親菩薩(をはじめとする仏道修行者)であるはずですが、それが法蔵菩薩にダブって見えてきます。かくして(天親菩薩が)「ともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり」と読むべきところを、(法蔵菩薩が)「作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と読まざるをえなくなるのです。

                (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その123) ブログトップ