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『教行信証』精読(その127) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読(その127)]

(4)本文2

 本文1につづく文です。

 問うていはく、一衆生の念仏の功を計(はか)りてまた一切を知るべし。なにによりてか一念の功力(くりき)よく一切の諸障を断ずること、一つの香樹の、四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんやと。
 答へていはく、諸部の大乗によりて念仏三昧の功能(くのう)の不可思議なるを顕(あらわ)さんとなり。いかんとならば『華厳経』にいふがごとし。たとへば人ありて師子の筋(すじ)を用ゐて、もつて琴の絃(お)とせんに、音声(おんじょう)一たび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障ことごとくみな断滅すと。また人ありて牛・羊・驢馬(ごようろめ)一切のもろもろの乳をしぼり取りて一器のなかに置かんに、もし師子の乳一渧(たい)をもつてこれを投(な)ぐるに、ただちに過ぎてはばかりなし、一切の諸乳ことごとくみな破壊(はえ)して変じて清水(しょうすい)となるがごとし。もし人ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔諸障ただちに過ぐるにはばかりなしと。またかの『経』にいはく、たとへば人ありて、翳身薬(えいしんやく)を持つて処々に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障、この人を見ず、もろもろの処々に随ひてよく遮障することなきなり。なんがゆゑぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなはちこれ一切三昧のなかの王なるがゆゑなりと。

 (現代語訳) 一人の念仏をおしはかって、一切を知ることができるというものでしょうが、たった一念の念仏が、すべての煩悩を断滅するのが、一本の栴檀樹が四十由旬の伊蘭林を芳しい香りにするようであるとはどういうことでしょうか。
 お答えしましょう。大乗の諸経典から念仏三昧の力の不思議さをあらわしますと、華厳経にはこうあります。人が師子の筋で琴の絃を作り、それをひとたび弾ずると、他の絃がことごとく断ち切れてしまうように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての煩悩や罪障が断滅するようなものです。また人が牛や羊、驢馬から搾った乳を一つの器にいれて、そこに師子の乳を一滴たらせば、他の乳はことごとく清水となってしまうように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての悪魔や障りは追い払われてしまうようなものです。あるいはまた同経にこうあります、人が身体が見えなくなる薬を用いて、あちこち歩き回っても、他のすべての人に見られないように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての悪神、すべての障りがこの人を見ることはなく、どこを歩き回っても妨げることができないようなものです。どうしてかといいますと、念仏三昧はすべての三昧のなかの王であるからです。

タグ:親鸞を読む
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