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たった一念の念仏で [『教行信証』精読(その128)]

(5)たった一念の念仏で

 たった一本の栴檀樹が四十由旬の伊蘭林を芳しい香りに変えてしまうように、たった一念の念仏があらゆる障りを滅してしまうのはどういうわけかと問い、それに答えて『華厳経』から三つの譬えを持ち出しています。譬えをつかった説明に対する疑問に、さらに譬えで答えているのですが、『華厳経』の譬えが伊蘭林の譬えを凌駕しているとは感じられず、この箇所はさほど説得力がないと言わざるをえません。念仏の不思議はどんな譬えを用いても近づきがたいということでしょうか。
 当時、念仏に対する深刻な疑義として「別時意説」というものがありました。『観経』に五逆・十悪の愚人も、臨終にあたり善知識の勧めにしたがい、十回でも「南無阿弥陀仏を称へ」れば、「念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き」、往生することができると説かれているが、それはあくまでも方便としての説であり、ずっと先の別の時の話を、ただちに往生できるかのように言われているだけだとするのです。天親の兄・無着の著した『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』の中に、仏の方便説のひとつに別時意があると説かれているのをもとに、『観経』の念仏往生の教えもこの方便説であると主張する人たちがいたのです(摂論家あるいは通論家といいます)。
 この考え方は常識にも合致し、かなりの力をもっていたと思われ、道綽もこれを意識して『安楽集』のなかでこれに反論しています。その要旨は、今生に五逆・十悪をつくるとはいえ、臨終に際して念仏を称えることができるのは、過去世において相応の宿因があるからであるというのです。とんでもない極悪人が臨終にたった十回念仏するだけで往生できるなんてどう考えても理不尽だという常識に対して、いや、今生では悪を重ねてきたとしても、それ以前に善業を積んでいるからこそ、臨終に際して善知識に遇うことができ、念仏することができるのだと反論しているのです。
 さてしかしこの反論で摂論家の人たちは納得するでしょうか。とてもそうは思えません。過去世のことを持ち出せば何とでも言えるからです。

タグ:親鸞を読む
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