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難の中の難 [『教行信証』精読(その129)]

(6)難の中の難

 どうも『安楽集』の論証力(人を頷かせる力)は弱いと言わざるをえません。いや、たった一回(『観経』に十回とあるのは、つきつめれば、たった一回ということです)の念仏で往生できるとする説そのものが、あまりにパラドキシカルで、どんな論証もはねつけてしまうと言うべきかもしれません。たった一回の念仏とは究極の易行でしょう。こんなに容易いことはありません。だからこそ、ただそれだけで往生できるというのは、それを了解するのがとんでもなく難しい。易行にして難信。経典もこの難しさをこれでもかとばかり強調します、「善知識に遇ひ、法を聞きてよく行ずる、これもまた難しとなす。もし、この経を聞かば、信楽受持すること、難の中の難、この難に過ぎたるはなけん」(『大経』末尾)と。
 この難しさはどこからくるのか。
 たった一回の念仏で往生できるというのは、あまりに虫のいい話ではないかと思うのは自然です。そもそも菩薩が菩提心を発して仏道を歩もうとするとき、その階梯は十信・十住・十行・十回向の40階位を進み、そしてはじめて初地、すなわち正定聚不退に至るとされ、生やさしいものではありません(初地に至ったのち十地の階位を歩み、等覚そして妙覚とよばれる仏の境界に達します)。それが、たった一回の念仏で正定聚不退に至るというのは、どう考えても常識から外れています。だから信じられない。易行にして難信というのはパラドクスでも何でもありません。易行にもかかわらず難信なのではなく、易行だから難信なのです。ほんとうは難行であるはずなのに、それを易行だというものだから難信なのです。
 さてしかし、この常識はすべて自力の前提にたっています。難といい易というのはすべて自力の土俵でのことです。そして、ほんとうのパラドクスは「易行にして難信である」ことにではなく、実は「自力にして他力である」ことに潜んでいるのです。念仏は、それがたった一回であるとしても自力であることは間違いありません。自分で念仏しようとして念仏するのですから(それ以外に念仏のしようがあるでしょうか)、それはあくまで自力です。しかし、それが実は他力であるということ、ここに正真正銘のパラドクスがあります。

タグ:親鸞を読む
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