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『教行信証』精読(その130) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その130)]

(7)本文3

 さらに『安楽集』から引かれます。先の本文2の末尾に、念仏三昧は三昧の中の王であるとあったのを受けて、ずっと先の(下巻の)この文が引かれたと思われます。

 またいはく、『魔訶衍1(まかえん)』のなかに説きていふがごとし、諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに、あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて瞋痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて痴貪を除くことあたはず。あるひは三昧あり、ただよく痴を除いて瞋を除くことあたはず。あるひは三昧あり、ただよく現在の障(さはり)を除いて過去・未来の一切の諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切の諸障を問ふことなくみな除くなり」と。
 注1 魔訶衍論の略。魔訶衍は大乗の意で、魔訶衍論とは『大智度論』のこと。

 (現代語訳) また『大智度論』にはこう説かれています。念仏三昧以外も三昧でないわけではありません。たとえば、ある三昧は貪欲を除いてくれますが、しかし瞋恚・愚痴を除くことはできません。あるいは、ある三昧は瞋恚を除いてくれますが、愚痴と貪欲を除くことはできません。また、ある三昧は愚痴を除いてくれますが、瞋恚を除くことができないといった具合です。さらには、ある三昧は現在の煩悩を除いてくれますが、過去や未来の煩悩を除くことはできません。ところが、もしつねに念仏三昧を行じますと、現在・過去・未来の一切の煩悩をみな取りのぞいてくれます。

 念仏の偉大さを他の行と比較することで強調しようとしていますが、これでしかし念仏往生に孕まれているアポリアを乗り越えられるとは到底思えません。念仏往生のアポリアは他の行との比較を絶しているからです。それは相対的なアポリアではなく、絶対的なパラドクスであるということを忘れるわけにはいきません。そこからしますと、このような説き方をすることはむしろ念仏往生が絶対的なパラドクスであることを覆い隠してしまう恐れがあると言わなければなりません。念仏の偉大さは、それが他の行より相対的に優れていることにあるのではなく、「念仏は自力でありながら同時に他力である」というパラドクスにあるのですから。

タグ:親鸞を読む
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