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本文4 [『教行信証』精読(その131)]

(8)本文4

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 さて、次の引文はそこに焦点を当てています。この文も『安楽集』の下巻、先の本文3よりさらにあとに出てきます。

 またいはく、「『大経の讃1』にいはく、もし阿弥陀の徳号をききて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名(みな)を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる」と。
 注1 曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』のこと。

 (現代語訳) 曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』にこうあります、阿弥陀仏の名を聞くことを得て喜び仰いで、心から帰依すれば、たった一念の念仏で大いなる利益があり、功徳の宝を得ることができます。たとえ世界中が火で満たされようと、その中で弥陀の名号を聞くことができさえすれば、それだけでもう正定聚不退転の位をえることができます。だから心から阿弥陀仏を礼拝したします、と。

 ここでは「大経の讃にいはく」と、曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』からの引用であることが記されていますが、道綽は、多くの箇所において、どこから引いているかを明らかにしないまま曇鸞の所説を持ち出しています。『安楽集』を読んでいまして、「あれ、この話はどこかで聞いたことがあるな」と思うことがよくありますが、それはたいがい曇鸞からです。道綽が浄土の教えに帰依するきっかけとなったのが、玄中寺を訪ねて曇鸞の碑文を読んだことであるのはよく知られていますが、以来、曇鸞の著作を読み破るほど読み込んだに違いありません。かくして曇鸞の文は道綽の身体に沁み込み、それをもう自分の文であるかのように使いこなしているのでしょう。
 さて、この曇鸞の偈文は浄土教の真髄をみごとに捉えています。それは「弥陀の名号を聞く」ということです。念仏は「下一念に至るまで大利を得」るのですが、それは「阿弥陀の徳号」を聞くことができたからであるということ、ここに念仏往生のアポリアを突破する鍵があります。

タグ:親鸞を読む
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