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念仏とは [『教行信証』精読(その132)]

(9)念仏とは

 たった一回念仏するだけでどうして往生することができるのか、という根本的な疑問に答えるには、「たった一回の念仏」にのみ眼を向けているだけでは到底おぼつきません。「たった一回の念仏」をどれほどこねくり回しても、そこから往生という結論は出てきません。ことは「念仏とは何か」という浄土教の原点に関わります。念仏とは弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えることである―これには一点の疑いもありません(念仏の原義は、仏を心に憶念することでしょうが、いまは称名念仏として話を進めたいと思います)。ただ、そこにとどまっていますと、それがどうして往生につながるのかという通路が一向に見えてこないのです。
 念仏とは「名号を称える」ことに間違いありません。しかし実はそれに先立って「名号を聞く」ことがあります。「名号を聞く」から「名号を称える」ということ、ここに念仏往生のアポリアを解く鍵があるのです。
 ぼくはずっと長い間、念仏とは南無阿弥陀仏と口に称えることとしか思っていませんでした。そしてそう思っていた間は、なかなか念仏ができませんでした。念仏しようとしても、それを押しとどめようとする力がはたらいて、南無阿弥陀仏がうまく口から出てくれないのです。どうしてかといいますと、こころのどこかで念仏は呪文のようなものという思いがあり、呪文のようなものを理性が押しとどめるのです。念仏するのは恥ずかしいという感覚から逃れられませんでした。
 しかしあるとき念仏とは口に称えるより前に、耳に聞こえてくるものだということに思い至ったのです。どこかから南無阿弥陀仏の声が届き、それに応えて南無阿弥陀仏と称えるのだと。称名には聞名が先立つのです。「帰っておいで」という声が聞こえて(聞名)、それに「はい、ただいま」と応答する(称名)、これが念仏です。そう気づいてからは、念仏が自然にできるようになりました。念仏はぼくがするには違いありませんが(その意味で自力ですが)、でもそれはぼくの意向ではなく、むこうから「帰っておいで」と呼びかけられてくるから、それに「はい、ただいま」と応えているだけです(その意味では他力です)。

タグ:親鸞を読む
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