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大千世界に満てらん火をも [『教行信証』精読(その133)]

(10)大千世界に満てらん火をも

 たった一回の念仏でどうして往生できるのかという問いは、われらが南無阿弥陀仏を称えることだけに目を奪われていますと、うまく答えることができません。念仏とは、われらが南無阿弥陀仏を称えることだけでなく、それに先立って南無阿弥陀仏の声がわれらに届けられることであり、そのふたつが合わさったものが念仏であるということ、この前提に立ってはじめて十全に答えることができます。われらが南無阿弥陀仏を称えるという点ではまぎれもなく自力ですが、それに先立って南無阿弥陀仏の声がわれらに届けられるという点では他力です。念仏は自力にして同時に他力であるということ、これをもとにしてはじめて、たった一回の念仏が往生の因となるという謎が解けます。
 むこうから南無阿弥陀仏の声がして(これが第17願の「諸仏称名」で、諸仏の南無阿弥陀仏の声がわれらに聞こえてくるのです)、その声がわれらの身に染みとおり、おのずから南無阿弥陀仏の声が口から漏れ出ます(これが第18願の「至心信楽、欲生我国、乃至十念」です)。そのときが正定聚不退となるときであり、往生がさだまるときです(これが第11願の「住正定聚」であり、また第18願成就文の「即得往生」です)。たった一回の念仏で往生できるというのはこのことです。
 ここから「たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし」という曇鸞の偈文がよく了解できます。この文は『大経』の末尾に「たとひ大火ありて、三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し」とあるのがもとになっています。曇鸞の偈文は「聞くべし」と終わっていますが、これを文字通り「聞かなければならない」と受け取るべきではないでしょう。弥陀の名号は、「聞かなければなりません」と命じられて、「はい、分かりました」としたがうことができるようなものではないからです。
 この偈は「大千世界に満てらん火をも」はねのけて、なんとしても聞かなければなりません、と言っているのではありません。「大千世界に満てらん火」の中であっても、かならず弥陀の名号を聞くことができる、と言っているのです。そして、それを聞くことができさえすれば、「大千世界に満てらん火」の中にあっても、もう「退せず」に生きていくことができると言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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