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『教行信証』精読(その134) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読(その134)]

(11)本文5

 『安楽集』からの最後の引文です。本文3と4は下巻からでしたが、この文は上巻に戻り、その末尾にあります。

 またいはく、「また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまはく、たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となりて、さらにはなはだ困劇(こんぎゃく)して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道につかふ。われこの人を説きて、眼(まなこ)なき人と名づく、耳なき人と名づくと。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらんと。以上

 (現代語訳) 『目連所問経』にはこう説かれています。仏は目連に次のように告げられました。たとえば数多くの大河に草木がうかんで、前をゆくものは後をかえりみることなく、また後ろをゆくものも前をかえりみることもありません。そうしてついには大海に入っていきますが、世間もまた同じようなものです。たとえ位が高く栄えて何不自由のない生活をしようと、みな生老病死から免れることはできません。仏の教えを信じることがありませんと、後に人間に生まれることができたとしましても、激しい苦しみにせめられることとなり、多くの仏のおわす国に生まれることはできません。ですから私はいうのです、無量寿仏の浄土は往き易く、入りやすいのに、人は修行してそこに往かず、かえって九十五種の邪道に仕えることになります。そのような人を「眼なきひと」、「耳なきひと」と言わざるをえません、と。このように経典は説いているのに、どうして難行道をすてて易行道につかないのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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