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前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず [『教行信証』精読(その135)]

(12)前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず

 現存の『目連所問経』にこの文はないそうですが、「たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとく」という表現などは、その光景が目に浮ぶようで、つよく印象に残ります。先に生まれたものは、後に生まれたものの力になることができず、後にうまれたものも、先に生まれたものを助けることができない。一定の距離をおきながら、みな同じように生老病死の大河を流されていくというイメージが鮮明にうかびます。
 さてしかし「ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず」としますと、そこにはどんな救いもないように思えますが、浄土の教えは「前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず」に流されていく人にどんなよきメッセージを伝えてくれるのでしょう。この引文では「ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となりて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず」というぐあいに、もっぱらいのち終わったのちのことが語られていて、無量寿国に往生するのも当然いのち終わったのちとされます。今生ではみな「ことごとく生老病死をまぬかるることを得ず」ですが、本願を信じ念仏すれば来生に無量寿国に往生することができるというわけです。
 これまで触れませんでしたが、『安楽集』では往生浄土はいのち終わってのちであることが当然とされています。
 『安楽集』という書物は『観経』をベースとしていますが(ところどころで「いまこの観経は」という言い回しがあらわれ、道綽は『観経』の教えを他のさまざまな経論をもちいて明らかにしようとしていることが分かります)、『観経』では「臨終に弥陀の来迎にあずかり、浄土に往生する」と説かれていて、往生するのはいのち終わってのちであることが前提となっています。一方『大経』はといいますと、往生は来生であるように読めるところもありますが、たとえば第18願成就文のように、信心のそのとき往生するとも書いてあり(即得往生)、文面上はどちらともとれます。

タグ:親鸞を読む
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