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『教行信証』精読(その137) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その137)]

        第11回 かの仏の願に順ずるがゆゑに

(1)本文1

 龍樹、天親、曇鸞、道綽ときまして、次に善導から引用されます。善導には『観経疏』4巻、『往生礼讃』1巻、『観念法門』1巻、『法事讃』2巻、『般舟讃』1巻の5部9巻の著作がありますが、まずは『往生礼讃』からの引文です。

 光明寺の和尚のいはく、「また『文珠般若(正式には文珠師利所説魔訶般若波羅蜜経)』にいふがごとし。一行三昧(もっぱら弥陀の名号を称える三昧)を明かさんと欲(おも)ふ。ただ勧めて、独り空閑(くうげん)に処して、もろもろの乱意を捨てて、心を一仏に係けて相貌(そうみょう)を観ぜず、もつぱら名字を称すれば、すなはち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏および一切の仏等を見ることを得といへり。
 問うていはく、なんがゆゑぞ観をなさしめずして、ただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意(こころ)かあるやと。
 答へていはく、いまし衆生障(さわり)重くして、境(対象)は細なり、心は麁(そ、粗雑)なり。識あがり神とびて、観成就しがたきによりてなり。ここをもつて大聖(釈迦)悲憐して、ただちに勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ずと。
 問うていはく、すでにもつぱら一仏を称せしむるに、なんがゆゑぞ境現ずることすなはち多き。これあに邪正あひ交(まじ)はり、一多雑現するにあらずやと。
 答へていはく、仏と仏と斉しく証して、形二の別なし。たとひ一を念じて多を見ること、なんの大道理にか乖かんや。(本文2につづく)

 (現代語訳) 善導和尚はこう言われます。『文珠師利魔訶般若波羅蜜経』に、一行三昧について次のように説かれています。一人静かなところで、心を鎮め、ただ弥陀仏だけを念ずることを勧めます。それも弥陀仏のお姿を観想するのではなく、ひたすらその名号を称えるのです。そうしますと、弥陀仏と他の一切の仏たちを見ることができます。
 お尋ねします、どうして弥陀仏のお姿を観想するのではなく、ただその名号を称えることを勧められるのでしょうか。
 お答えします、衆生にはさまざまな障りがあり、相手は非常に繊細であるにもかかわらず、こころはふわふわと飛び回って、仏のお姿をじっと観想することが難しいからです。釈迦はそうした衆生を哀れみ、ただ名号を称えることを勧められるのです。称名は易しいですから相続することができそのまま往生できるのです。
 お尋ねします、ただ弥陀仏の一仏を称名するだけなのに、どうして多くの仏たちを見ることになるのでしょうか。それは正と邪とがまじる結果、一と多がまじることになっているのではないでしょうか。
 お答えします、仏たちの悟りに違いはありませんから、一仏を念じて多くの仏を見ることになっても、道理に背くことはありません。

タグ:親鸞を読む
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