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『往生礼讃』とは [『教行信証』精読(その138)]

(2)『往生礼讃』とは

 『往生礼讃』は正式には『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃偈(一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈)』といい、この長い名前にこの書物の趣旨がよく示されています。この書物は前序と正明段と後述の三つの部分からなりますが、この引文は前序にあり、「一行三昧(ただ念仏だけ)」の意味を明らかにしています。因みに六時といいますのは、日没(にちもつ、午後4時ごろ)、初夜(午後8時ごろ)、中夜(午前0時ごろ)、後夜(午前4時ごろ)、晨朝(じんじょう、午前8時ごろ)、日中(午後0時ごろ)のことです。
 蓮如が朝夕の勤行に正信偈を取り入れたのはよく知られていますが、それ以前は、この六時礼讃が読誦されていたようです。
 さて、この文では、一行三昧(ただ念仏)について二つの問いが出され、それぞれに答えるかたちで論が進められます。一つは「なぜ観でなく称なのか」ということ、二つ目は「なぜ一仏を念じて多仏があらわれるのか」ということです。一点目のなぜ「観でなく称」かという論点は、善導が『観経疏』において、『観経』という経典は聖者を対象に「観仏」を説いているのではなく、凡夫を対象に「念仏(称名)」を説いたものであることを明らかにしたこと(そのことを古今楷定‐ここんかいじょう、古今の正しい基準を確定するの意‐と言います)に関わり、きわめて重要ですが、ここではその理由として「境(対象)は細なり、心は麁(そ、粗雑)なり。識あがり神とびて、観成就しがたきによりて」と述べるだけです。
 なぜ「観ではなく称」なのかという問いに、「観は難だが、称は易である」からと答えているのです。
 このような答え方は浄土教においてしばしば現れるものですが、よほど注意してかからないと思わぬ落とし穴にはまってしまいます。まず「難と易」という対概念は、普通には、自力の土俵において意味をもつものですから、「観は難だが、称は易である」と言われますと、つい観も称も自力であると思ってしまう危険があるのです。観も念もわれらが行としてしなければならないことだが、観は難しく称は易しいから、「観ではなく称」なのだと受けとってしまうのです。

タグ:親鸞を読む
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