SSブログ
『教行信証』精読(その139) ブログトップ

なぜ観ではなく称なのか [『教行信証』精読(その139)]

(3)なぜ観ではなく称なのか

 龍樹が「難行と易行」、曇鸞が「自力と他力」の対立軸をうちだし、そこに道綽が「聖道と浄土」という対概念をかぶせて、聖道門は自力で難行、浄土門は他力で易行という構図がつくられていくのですが、ここには危険な落とし穴があります。自力は難で、他力は易とすることは大きな誤解を招く恐れがあるのです。難といい、易というのは、普通は自力の土俵でのことであるということをあらためて確認しておきたいと思います。何かが難しいとか、易しいと言えるのは、それを自分でゲットしようとするからであり、自分の力に照らしてそれは難しい、易しいとなるわけです。それに対して、何かにゲットされるという他力の経験にはその意味での難も易もありません。気がついたときにはもうゲットされているのです。自力の世界に難と易があるのであり、他力には難も易もありません。
 「観ではなく称」であるのはなぜかと言いますと、「観は難で、称は易」であるからではありません、「観は自力で、称は他力」であるからです。
 しかし「称は他力」とはどういうことでしょう。口に南無阿弥陀仏と称えるのは、自分でそうしようと思ってしているはずですから、それが他力であるというのはいかにも理不尽に思えます。親鸞は「行巻」の後半で、「他力といふは、如来の本願力なり」と言いますが、名号を称えることは本願力のなせるわざなのでしょうか。われらが名号を称えるのではなく、本願力により名号が自動的に口から出てくるということでしょうか。しかしわれらは本願力に自在に操られる傀儡ではありません、あくまで自分の意思で名号をとなえています。ここをあやふやにしますと、何か怪しげな教えになってしまいます。
 どこかに本願力という神秘的な力があって、われらに直接はたらいていると理解すべきではありません。われらが気づいてはじめて本願力はその姿を現すのであり、気づくことがなければ本願力などというものはどこにも存在しないということ、これを忘れるわけにはいきません。そして本願力に気づくということは、われらに「帰っておいで」という願いがかけられていることに気づくことです。「帰っておいで」と願われていることに気づいたから、「はい、ただいま」とただちに応答するのです。「はい、ただいま」と応答するのは紛れもなくわれらですが、それは「帰っておいで」と呼びかけられているからということ、これが「称は他力」ということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その139) ブログトップ