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かの仏の願に順ずるがゆゑに [『教行信証』精読(その142)]

(6)かの仏の願に順ずるがゆゑに

 最後のところに「十即十生、百即百生なり。なにをもてのゆゑに。…仏の本願と相応することをうるがゆゑに」とありますが、この文から頭に浮ぶのが『観経疏』「散善義」のあの文です。「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々に捨てざるをばこれを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」。「あの文」と言いましたのは、あるとき法然の目にこの文が飛び込んできて、それが機縁となって43歳の法然は山を下り、吉水に庵を結んで専修念仏の教えを人々に説きはじめることになったというあの因縁の文であるということです。
 なぜ専修念仏が「正定の業」、すなわち正しく往生が定まる行であるのかと言えば、それが「かの仏の願に順ずるがゆゑ」である―これを読んだ法然の目からうろこが落ちた。それまでの法然が善導の浄土教を知らなかったわけではないでしょう。それどころか罪悪生死の凡夫もただ念仏するだけで往生できるという教えに心ひかれていたに違いありません。でも薄皮一枚の疑いが残った。安楽浄土に往生して成仏するのに、たった一度の念仏でいいというのは、どんな根拠で言えるのか、それは仏道修行の常識に反するのではないか、というおそらく誰もが抱く疑問です。
 仏道修行の常識といいますのは、何らかの証果を得るためには、それなりの因を修めなければならないということですが、そこからしますと、安楽浄土に往生するという果に対して、その因がたった一度の念仏というのでは、あまりにバランスを欠いているではないかという疑いが起こってくるのは自然でしょう。その疑いの前に立ち止まっていたであろう法然の眼に「かの仏の願に順ずるがゆゑに」という一句が突き刺さってきたのです。そのとき法然は「そうだったのか、これまで何という思い違いをしていたのか」と思ったに違いありません。
 どういう思い違いかといいますと、これまでは「われら」が何らかの因をつくることで、往生という果をえられると思い込んでいたが、往生の因は「弥陀仏」がもうとうのむかしにつくってくださっているということです。

タグ:親鸞を読む
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