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第18願は [『教行信証』精読(その143)]

(7)第18願は

 ことは第18願の読み方に関わります。
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん(至心信楽、欲生我国、乃至十念)。もし生れざれば正覚を取らじ」という文言を何の気なしに読みますと、「十方の衆生が、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念すれば、そのものたちをわが浄土へ迎えよう。そうでなければ仏になるまい」と受け取ってしまいます。法蔵菩薩が十方の衆生に向かって、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念しなさい。そうすればかならずわが浄土へ往生させよう」と呼びかけているように受け取るのです。
 しかしこのことばは法蔵が衆生に向かって語っているのではなく、世自在王仏に対して誓っているということに思い至れば、まったく違う響きがしてきます。「わたしが仏となるときには、十方の衆生が、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念するようにしたいと思います。そうしてそのものたちをわが浄土へ迎えたいと思います。もしそうでなかったらわたしは仏となることはありません」と聞こえてきます。法蔵は、十方の衆生が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」すれば、と言っているのではなく、十方の衆生が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するようにしたい、と言っているのです。
 「われら」が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するという因をつくることで、かの浄土に往生するという果が与えられる、のではなく、「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」するという因もまたすでに与えられているということです。「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」することは「われら」に課されている(ドイツ語でaufgegeben)のではなく、それ自体がすでに与えられている(gegeben)のです。としますと、念仏するものは「十即十生、百即百生」であるのは当然ではないでしょうか、それが「仏の本願」なのですから。

タグ:親鸞を読む
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