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『教行信証』精読(その144) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その144)]

(8)本文3

 次に「日没礼讃」と「初夜礼讃」から引用がつづきます。

 またいはく、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。以上
 またいはく、「弥陀の智願海は、深広(じんこう)にして涯底(がいてい)なし。名(みな)を聞きて往生せんと欲(おも)へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千(三千大千世界)に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。万年(一万年後)に三宝(仏・法・僧)滅せんに、この経(大経)住すること百年せん。その時、聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。抄要

 (現代語訳) また「日没礼讃」のところにこうあります、ただ念仏する衆生をご覧になり、そのものをかならずおさめ取って捨てられることはありませんから、阿弥陀仏と名づけるのですと。
 また「初夜礼讃」の偈にはこうあります、弥陀の本願の海は深くて広く、果ても底もありません。名号を聞くことができ往生したいと思えば、みなことごとく往生することができます。たとえ世界中が大火に満たされようと、そこを過ぎて名号を聞くことができさえすれば、喜びがわきあがり讃嘆の声がもれて、みな浄土に往生できます。一万年後に仏法僧の三宝は滅びますが、この『大経』だけは百年の間のこります。そのときに名号を聞くことができ一念すれば、みな浄土に往生することができます、と。

 「日没礼讃」の文は、善導が『観経』の「(弥陀の)光明、あまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てたまはず」という文と、『小経』の「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。ゆへに阿弥陀と名づく」という文の意をとり、ひとつに合わせたものですが、これまたうっかり読みますと、落とし穴が待っています。

タグ:親鸞を読む
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