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ただ念仏の衆生を観そなはして [『教行信証』精読(その145)]

(9)ただ念仏の衆生を観そなはして

 「ただ念仏の衆生を観そなはして」という言い回しからは、弥陀仏は念仏の衆生を見つけだして、その人だけを摂取不捨すると受けとめられかねません。そうしますと、念仏することが往生の条件となり、その条件を満たすものは往生できるが、そうでないものは往生できないというように選別されることになります。しかし先にこう言いました、第18願の「至心信楽、欲生我国、乃至十念」はわれらに往生の条件として課されている(aufgegeben)のではなく、往生とともに与えられている(gegeben)のだと。としますと、念仏すれば、往生の条件を満たして、めでたく往生できるが、念仏しなければ往生できない、のではないということです。
 では「ただ念仏の衆生を観そなはして」とはどういうことでしょう。あらためて『観経』の「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」という文において、光明と念仏はどのような関係にあるのかを考えてみたいと思います。これまで述べてきましたことから、まずわれらの念仏があり、しかるのちに弥陀の光明が照らされる、のでないことははっきりしています。もしそのような関係にあるのでしたら、念仏は光明(摂取不捨)の条件として課されていることになりますから。としますと、まず弥陀の光明が照らされ、しかるのちにわれらの念仏がある、としか考えられませんが、それはいったいどういうことでしょう。
 むかしから、どんなむかしよりももっとむかしから(十劫のむかしから)ずっと照らしつづけられている弥陀の光明にわれらが気づくかどうか、これです。気づかなければ弥陀の光明などどこにもありません。いや、ないということもありません。あることはもちろんないし、ないことすらない。小鳥がきれいにさえずる声が聞こえなければ(このところ耳鳴りに悩まされ、妻に「あの声が聞こえないの」と言われることがしばしばです)、その声は存在することも、存在しないこともありません。聞こえてはじめて、その声は存在するようになり、そして聞こえていなかったこれまではその声は存在しなかったのです。
 さて十劫のむかしからわれらを照らしつづけている弥陀の光明に気づいたらどうなるのでしょう。そのとき念仏の声が口から漏れ出てくるのですが、さてこれはどういうことか。それを次の「初夜礼讃」の偈文が明らかにしてくれます。

タグ:親鸞を読む
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