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名を聞きて [『教行信証』精読(その146)]

(10)名を聞きて

 善導の「初夜礼讃」の偈文は『大経』の経文から取られています。ここに引用された最初の偈文は、いわゆる「往覲偈(おうごんげ)」の二つの偈文をひとつに合わせて作られています(「如来の智慧海、深広にして涯底なし」と「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到り、おのづから不退転に致る」)。そして第二の「たとひ大千に満てらん火にも云々」と、第三の「万年に三宝滅せんに云々」という偈文はいずれも『大経』「流通分」の経文に依って作られています。
 親鸞は「初夜礼讃」の二十四偈から三つの偈文を選んで引用しているのですが、共通するのは「名を聞きて」というところです。「名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る」という点に注目して引いていると思われます。名号を聞くことができれば、もうそれだけでかの国に往生できるということ、いや、名号を聞くことができたそのことが、かの国に往生できたことに他ならないということ、親鸞にとってここに浄土の教えの根幹があります。
 すでに述べてきましたように、名号は称えるより前に聞こえるものです。向こうから南無阿弥陀仏と聞こえるから、それに応じてこちらから南無阿弥陀仏と称える、この順序が肝心です。すぐ前のところで、念仏するから光明に照らされるのではなく、光明に照らされていることに気づくから念仏すると言いましたが、同じことです。本文2に「弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明名号をもて十方を摂化したまふ」とあったのを思い起こしたい。弥陀は光明と名号をもってわれらを摂取不捨してくれるということです。
 誰かにかけられた願いは、相手に届かなければ力となりません。法蔵菩薩は一切衆生を救いたいという願いを立てましたが、そしてそれを世自在王仏に誓いましたが、それだけではただの願い、ただの誓いにすぎません。その誓願を一切衆生に届ける方策を同時に立ててこそ、ただの誓願ではなく願力となってはたらくことができます。その方策というのが光明と名号であるということです。光明が一切衆生に照らされ、名号が一切衆生に届けられることにより、法蔵の願いがわれらに通じ、そのこと自体が救いの力となるのです。

タグ:親鸞を読む
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