SSブログ
『教行信証』精読(その149) ブログトップ

現世の利益 [『教行信証』精読(その149)]

(13)現世の利益

 善導は『往生礼讃』の最後に当たり、弥陀の名号を称えて往生を願うことで、この現世でどんな利益があるのかと問います。そしてそれに答えて、まず滅罪の利益、次いで護念の利益(悪鬼・悪神による災いから護られるという利益)、さらに摂生の利益(摂取され往生できるという利益)を上げています。この後、本文6で証生の利益(往生が証明されるという利益)が上げられるのですが、これらはこの少し後に取り上げられる『観念法門』において五種増上縁としてまとまった形で示されます(滅罪増上縁、護念増上縁、摂生増上縁、証生増上縁に見仏増上縁が加わります)。
 親鸞も「信巻」において「現生十益」を上げていますが、そのなかの「転悪成善の益」が滅罪増上縁に、「冥衆護持の益」および「諸仏護念の益」が護念増上縁に、そして「入正定聚の益」が摂生増上縁に当たると考えられます。このように善導も親鸞も念仏にはこの世においてさまざまな利益があると言うのですが、これをいわゆる「現世利益」との関係においてどう考えたらいいのか、滅罪を例に思いを廻らしたいと思います。「もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す」というのは、一回念仏することで、これまで積み重ねてきた罪が一挙に消えてしまい、悪人が善人に変身するということでしょうか。
 もしそうだとしますと、念仏は驚くべき魔法だと言わなければなりませんが、そういう意味ではないでしょう。釈迦は魔術を否定し覚醒を目指しましたが、善導も親鸞もその教えを受け継いでいるはずですから、名号を呪文として称えることで罪が消えると考えているとは思えません。では滅罪の益とは何か。念仏したからといってこれまでの罪が消えるわけではありませんが、その罪がもう往生の障りとなることはなくなるということです。罪は罪としてそのままで往生できるということです。罪が往生の障りでなくなれば、もう罪でなくなったようなものです。これが「よく八十億劫の生死の重罪を除滅す」という意味だと考えられます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その149) ブログトップ