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衆生称念すれば、かならず往生を得 [『教行信証』精読(その150)]

(14)衆生称念すれば、かならず往生を得

 護念の益も同じです。「一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便りを得しめざる」というのは、念仏すれば悪鬼・悪神が災いをもたらすことがなくなり、どんな病気からも、どんな災害からも護られるということではありません。もしそうでしたら、これほど結構な護符はありませんが、念仏はそんな便利な護符ではありません。では護念の益とは何か。念仏したからといって病気にかからないわけでも災害に遭わないわけでもありませんが、そうした災難が往生の障りにならなくなるということです。どんなひどい災難のなかにあろうと、そのままで往生できるということです。災難が往生の障りとならなくなれば、もう災難でなくなったようなものです。これが「悪鬼悪神をしてその便りを得しめざる」という意味です。
 このように見てきますと、滅罪の益も護念の益も、結局は「摂取され往生できる」ということ、すなわち摂生の益に尽きることが分かります。この摂生の益は「もしわれ成仏せんに十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生ぜずは正覚をとらじ」という法蔵の誓願に集約されています。これは言うまでもなく第18願で、それが善導流にアレンジされています。語句が省略されたり、また加えられたりすることから、第18願加減の文とよばれますが、「至心信楽、欲生我国」が省かれ、「乃至十念」が「わが名号を称せん、下十声に至るまで」とより具体的に言われています。信心よりも念仏に重きが置かれているのですが、大事なのは「衆生称念すれば、かならず往生を得」ということです。念仏すればかならず摂取され往生できるということ、これが摂生の益です。
 さてここで考えたいのは、摂生の益もまた現世の利益であり、「いますでにこの勝益まします」と言われていることです。滅罪の益や護念の益が「いますでに」であるのは明らかですが、摂生の益もまた「いますでに」と言われますと、こころがざわつかないでしょうか。経には、浄土に往生するのは「いのち終らんとするとき」であると書いてあるからです。これにつづく文を読んで、そのあたりをどう考えたらいいのか、思いを廻らせたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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