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現益と当益? [『教行信証』精読(その152)]

(16)現益と当益?

 今度は『小経』を出して、「もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとする時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顛倒せず、すなはちかの国に往生することを得ん」という利益、すなわち摂生の益をあらためて確認します。そしてさらに『小経』には、六方世界の無数の諸仏たちが、弥陀の名号を称えることでかならず往生できることをそれぞれの国において証誠しているということ、すなわち証生の益が説かれているとします。これで『観念法門』にいう五種増上縁のうち、見仏増上縁を除いた四つの増上縁がでそろったことになるわけです。
 すでに述べましたように、それら五種増上縁の要となるのが摂生の益ですが、問題はこの益を受けるのがいつのことかということです。上にあげました文で「命終らんとする時」、「この人終らん時」と、弥陀の来迎をうけ往生するのは臨終の時であると繰り返し説かれていますから、摂生の益をうけるのは臨終であることになりますが、さて臨終に往生するとしますと、それがなぜ現世の利益なのか。そこで現益(現世の利益)と当益(来世の利益)の区別が持ち出されるのが普通で、往生そのものは当益であるが、それが約束されるのが現益であるとされるのです。そして往生がさだまったものが正定聚であるとされます。
 かくして現世で往生がさだまり、来世に往生するということになります。
 こう理解しますと、頭がすっきり整理されたような気になりますが、さてしかし往生はさだまったものの、いまだ往生していない状態というのはどんなものでしょうか。ぼくには臨終に出航する船の切符をしっかり握りしめながら、ひたすら船出のときを待つ人の姿が浮んできます。船に乗って旅立つという喜ばしい出来事は未来のことで、現在はそのときを待ちながら、肝心のときにズッコケて乗船できないなどということがないように備える。常日頃の念仏は、本番である臨終にしっかり念仏できるようにするためのリハーサルにすぎません。これが親鸞の理解した正定聚の姿でしょうか、ぼくには到底そうは思えません。

タグ:親鸞を読む
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